「他人の所為(せい)にすること」の研究
反自己責任な態度を採る人々の理由) 

First Up-loaded on Oct. 13, 2006.

"Why Do Certain People Blame Others?"

中央大学 教授(総合政策学部)・米国弁護士(NY州) 平野 晋

Susumu Hirano; Professor, Faculty of Policy Studies, Chuo University (Tokyo, JAPAN); Member of the New York State Bar (The United States of America) . Copyright (c) 2006-2007 by Susumu Hirano.   All rights reserved. 但し作成者の氏名&出典を明示して使用することは許諾します。 もっとも何時にても作成者の裁量によって許諾を撤回することができます。当ページ/サイトの利用条件はココをクリック Terms and Conditions for the use of this Page or Site. 当サイトはアメリカ不法行為法(Torts)の研究および教育用サイトです。

【未校閲版】without proof

「他人の所為(せい)にする」理由は何か? --- 「償い」を求めて民事賠償請求訴訟を提起する理由

 事故が発生すると、一定の人々は、その原因を自己責任とは認めずに、他人の所為(せい)だと主張して民事不法行為賠償責任請求訴訟を提起します。そのような提訴に至る理由は、一体何でしょうか?何故そのようなタイプの人々は、何でも他人の所為にするのでしょうか?そのような態度が非倫理的だとは思わないのでしょうか?

 この疑問に答える為に、法律学の最先進国たるアメリカ法学上の見解・分析を、以下のように探ってみました。

目次

 「権利」意識が他人の所為にする風潮を助長する?!

個人主義が濫訴の原因?

 絶対的な権利や絶対的な正義への懐疑とADRの勧め

「帰属錯誤・自己奉仕偏見」が他人の所為(せい)にする原因?

出典・参考文献

 「権利」意識が他人の所為にする風潮を助長する?!

法律学を学ぶ者は、「権利」こそが神聖不可侵な神の存在の如くに教えられ、権利主義を否定することなどあってはならないかのような環境があります。(たとえば「権利の為の闘争」とか、隣人訴訟を提起することを責めるのは権利主張を妨げると法務省が公然と批判するような態度です。)

しかし、封建社会崩壊直後の嘗ての資本主義が勃興したばかりの時代ならば理解できるそのような思想も、ポスト・モダンな現代においては、最早そのような「教条主義」に固執する姿勢には大きな問題があるのではないでしょうか?

全てを疑う「リアリズム法学」でありませんが、嘗ては正しく、異議を差し挟むことさえ憚られたことであっても、現代ではその正しさを疑う勇気を失ってはならないのではないでしょうか?

すなわち、「権利」の美名も、その実態は「我侭」であると捉えるべきであったり、または「他人の権利への平等な尊重の欠如に当たる」と捉えることが必要な場合もあるはずではないでしょうか?

たとえば以下のような指摘が参考になります。

出典: CHASE, LAW, CULTURE, AND RITUAL, infra, at 45-46.

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個人主義的社会では訴訟が多発する?!

   階層的・階級的文化(hierarchical culture)に於いては、社会的関係の維持が余りにも重要過ぎる為に、訴訟等によってこれを危うくすることができない程である。 / これと正反対に、アメリカのような個人志向の社会(individual-oriented culture)に於いては、個人の自律と選択(individual autonomy and choice)こそが価値を置かれる。 (アメリカは調査した国々の中で最も個人主義的であるとされ、 その文化的特性は訴訟への偏向を支持するものである。) 個人の自律の強調は、偏狭な個人的利益の勢力的な主張(the vigorous assertion of narrowly defined personal interests)へと導かれ、他人の権利と対極的な衝突(polar conflict with the rights of others)を生じさせるように思われる。そのような文化では「謝罪」に対して余り重きを置かず、[代替的]紛争解決よりは、むしろ訴訟を使う傾向になる。 ... 個人志向の文化に於いては「関係性」は社会の枠組みの中で余り重要な役割を有していないから、「謝罪」にも低い価値しか置かれないのである。    Pavlick, Apology and Mediation, at 840 & n.59, 841.

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 絶対的な権利や絶対的な正義への懐疑とADRの勧め

ポスト・モダニズムは物事の究極的な説明や客観的観察にも懐疑的です。紛争解決の過程で求められる、過去に発生した裁判による事象の真実の探求も、懐疑的に捉えられるのです。確かに真実などというものは、神ではない人間に、決して判るはずはありません。裁判が真実探求の場などと言うことは、夢に過ぎず、現実を見据えていないのではないでしょうか。

嘗てのリーガル・リアリズムと、その後の批判的法学研究(critical legal studies)は、客観的な法的決定の存在を否定し、法は操作されるものと捉えている。
もし法が真実を発見できないのならば、最早をそれを追い求めることや止めても良いのではないかと捉えられて、ADRが支持を得て来ている。-- 紛争の解決は物事の正しさ(rightness)に依るのではない。調停は 過去に何が生じたのかに焦点を当てず、当事者の各利益に焦点を当てる。
仲裁人が、権利の有無について不明である場合には、両当事者の差異を区別して[真ん中を取る]という、裁判には不可能なことも仲裁では可能なのである。

See CHASE, LAW, CULTURE, AND RITUAL, infra, at 112-13.

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帰属錯誤自己奉仕的偏見が「他人の所為(せい)にする」原因かも?

  人は、自らの責任を認めるよりは、むしろ他人の所為(せい)にしたがる。「帰属錯誤」(attribute error)あるいは「自己奉仕的偏見」(self-serving bias)に拠る。See 平野『アメリカ不法行為法』 at 401.  たとえば、「成功の父は沢山名乗りを挙げて来るけれども、失敗には父が居ない」(JFKの言葉?)と迄も言われている。 

  つまり、他人の所為にするのは人の本来的な認知的性向なのである。

  「法と大衆文化」的に説明すれば、たとえば心理カウンセラーが主人公のFoxのテレビ・ドラマ「Huff」に於いて、Huffの患者であった少年が、診察中に突然ピストルで自殺し、両親がその損害賠償請求訴訟をHuffに対し提起・追行するというエピソードが、上の現象を象徴的に表している、と筆者には思われる。 −−− 即ち、少年の自殺は、自身がゲイであることを告白してそれを両親が叱責したその日の診察時に起きていた。その事実と、そこから推論される自殺原因、即ち両親こそが自殺に追いやったこと、を両親は容易に認めようとせず、責任を主人公に転嫁しようとしていたのだった。おそらくは両親自身が我が子の自殺原因であったということは[少なくとも明確には]自認していなかった[あるいはしたくなかった]ところ、デポ(depo.; depositionsの略語)に於けるHuff側弁護士からの両親への質問を通じて、叱責が原因であったことを両親自身も悟ることとなる。そして結局両親は訴えを取り下げるのであった。 --- 親は我が子の死因を自らのフォールトにあるとは認めたがらないという心理状態は、容易に推察できる。 しかしだからといって、他人の所為(せい)にされたならば、その他人にとってはやり切れないこととなろう。

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自己奉仕的な態度を捨て去ることこそが「他人の所為(せい)にする」濫訴を防止し、協調的人間関係回復(restroation of a harmonious relationship)に通じるのではなかろうか。

See Pavlick, Apology and Mediation, at 843.

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出典・参考文献

【未校閲版】without proof

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