自己責任」の考察

Personal Responsibility / Individual Responsibility

中央大学 教授 (総合政策学部)
米国弁護士 (NY州)
平野 晋

関連ページは、「大衆の危険意識法と認知科学・行動主義大衆文化と法意識ロイヤー・ジョーク」「熱いコーヒーが欠陥である」というPL訴訟の適否について」「ファーストフード(外食)が肥満症を生じさせた損害の賠償責任に関する研究」「フォード・ピント事件の真相」参照。

Susumu Hirano
Professor of Law, Faculty of Policy Studies, Chuo University (Tokyo, JAPAN)
Member of the New York State Bar (The United States of America)
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First Up-loaded on May 26. 2005.

【未校閲版】without proof

目次

自己責任の倫理が衰退した理由: 私見 

他人の所為(せい)にしがちな理由の一つとしての非難≠フ構成要素 

自己責任」とは?

犠牲者・ヒガイシャ」対「負傷者」 

パターナリズム」と自己責任: 認知心理学・行動主義からの指摘

真≠フ同意が無ければ自己責任が無い、という主張は果てしが無い?! 

アメリカ法律学上は忌み嫌われて来た「パターナリズム

パターナリズム」とは?

パターナリスティックな政策の例

危険の引受」を巡る論議

「自発性」「非自発性」というダイコタミー的区別への批判
「危険の引受」の法理

自己責任の限界事例

L.L.C.: "Last Clear Chance"の準則 

ファースト・フード肥満訴訟

コーヒー火傷訴訟

 自己責任の倫理が衰退した理由: 私見 〜製造物責任の文脈に於ける自己責任の解剖学〜

権利を追求すること自体は、現代の民事法の基盤として正しいことであるとされています。

しかし、人々が社会を形成している以上は、権利と権利が衝突する場合が不可避的に生じます。その際には、単に自己の権利だけを無制限に肯定する訳には行かなくなります。

そこで必要になる倫理(moral foundations)・価値(value)・規範(norms)は、平等≠竍公平≠ナす。自己の権利は絶対ではなく、人は、他人の行為をも尊重しなければなりません。

製造物責任に於けるπ(受傷者)対凵i製造業者等)という文脈に於いては、凾ェ無過失責任的に常に責を負うべきではありません。何故ならπもその製品を使用したことで「効用(utility」を得ていた訳だし、更には凾ノよる「モノつくり」という活動が人々に効用≠もたらしているのですから、平等や公平の倫理・価値・規範を当てはめれば、凾フ行為をπや人々は尊重しなければならないのです。

更には、製品事故というものは、凾フコントロール下にある為に凾ノ帰責するというよりは、むしろ、πのコントロール下で生じてπ側にこそ事故回避が可能であった場合が多く(いわゆる「双方的な防止(bilateral precaution)」の場合です)、従ってπこそが最安価事故回避者(cheapest cost avoider)であると考えられる場合も多いのです。

それにもかかわらず、πが自己の権利主張に固執して、凾責め続ける態度は、もはや正当な権利の射程を超えて、「我儘(わがまま)」や「何でも他人の所為(せい)にする」という非難の対象になるのです。

自己責任を否定し、自己の権利ばかり≠主張する言説の中には、そのような「我儘」や「何でも他人の所為にする」という非倫理的な態度も見受けれられます。自己責任ではないと臆面もなく主張するような思い違いが生じる理由は、平等や公平の倫理が欠けていることに因るのではないでしょうか。自己の権利主張ばかりに固執するから、他人の権利への平等・公平な配慮や尊重を欠くのです。

更に製造物責任の文脈では、「効用」を享受しておきながらその恩恵をすっかり忘れるからこそ、「モノつくり」に従事する製造業者等への平等・公平な尊重の気持ちを欠くのでしょう。

最近はそのような「ジコチュウ(自己中心的)」な言説が大手を振るばかりか、マスコミもそれを支持するかのように偏向報道する姿勢がたまに見受けられることは、嘆かわしいことです。

First Up-loaded on Nov. 8. 2005.

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 他人の所為(せい)にしがちな理由の一つとしての非難≠フ構成要素

「非難」(blame)に影響を与える要素には、以下が挙げられています。

すなわち、コントロールが無くなる程、「[止むを得ない]事故」として非難から遠ざかるという訳です。

See Hans & Juliet Dee, infra, at 1102.

個人のコントロールと自決権(self-determination)こそが責任の判断に強く左右するので、πが凾責める際には、できるだけπ側のコントロールが制約された状況にあって剔、の個人的コントロールの範囲が広かった旨を強調するようにフレイミングあるいはリフレイミングを用いるべきだ、と指摘されています。

Id. at 1114-15.

First Up-loaded on Nov. 8. 2005.

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自己責任」とは?

既に以下の文献が、「自己責任」に関して、興味深い指摘をしているので参考になります。

David M. Engel, The Oven Bird's Song: Insiders, Outsiders, and Personal Injuries in an American Town, 18 LAW & SOC'Y REV. 551, 558-59 (1984).

「個人主義」(individualism)には以下の二種類が存在する。

Engelによる上の指摘は、日本で正に意見を二分する立場を言い表しているようではありませんか?

First Up-loaded on May 26. 2005.

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犠牲者・ヒガイシャ」 対 「負傷者」

事故が起きたときに、負傷者を「ヒガイシャ」とか「犠牲者」と呼ぶ慣行は、既に誰か責めるべき「カガイシャ」を求めているような気がしませんか?

すなわち、既に、誰か他人である「カガイシャ」が悪いのである、責められるべきである、という先入観があるのではないでしょうか?

確かに、負傷者が全く(あるいは、ほとんど)責められるべきではない無垢な状況にあり、かつ、被告(凵jの立場に立つ可能性のある側に(大きく、あるいは実質的に)責められるべき理由が何かある場合には、「ヒガイシャ対カガイシャ」という構図は判り易く説得的かもしれません。

しかし、剔、の責められるべき理由に疑義がある場合、たとえば社会の価値観・規範として凾ヨの責任転嫁に議論がある場合(たとえば外食のし過ぎで肥満になった責任が凾ノある?場合)にまで、負傷者を「ヒガイシャ」とか「犠牲者」と呼ぶことは、凾不当に有責にしてしまう先入観が機能してしまうのではないでしょうか?

このようなテーマに、少し参考になりそうな文献が、以下かもしれません。 これは、現状のように事故の損失が落ちた負傷者(=原告:π)が訴訟に頼って凾ゥら賠償金を巻き上げる制度に対して批判し、各人がもっと損害保険付保等により事故に備える制度を推奨する論文です。 この主張を、たとえば事故防止・事故回避義務を負傷者にもっと課すべきである、他人への責任転嫁を控えるべきである、という文脈に換えて、類推してみると、今後の「自己責任」論に資するかもしれません。

負傷した者(an injured person)を「犠牲者・ヒガイシャ」(a victim)と看做すか、または反対に、自らの損失は自らが主に負う者(the one who has primary responsibility for bearing his own losses)と看做すかの違いには、大きなものがあります。  「犠牲者・ヒガイシャ」(a victim)とは、ウエブスター辞典によえば、他人に因り殺されたり、苦しめられたり、あるいは犠牲になった者云々という意味ですから、「犠牲者・ヒガイシャ」が存在するということは「カガイシャ」を明らかにして罰を科すべきという要求を伴います。
See クック, 「自己責任」, supra, at 1248.
逆に、「自己責任」(personal responsibility)には、自らが被った個人的な損失に対し各個人が責任を負担するという意味を論理的に伴います。だからこそ、「個人的」(personal)「責任」(responsibility)、と言い表わされるのです。自己責任が「個人的」であるのは、個人自らが損失填補の原資となるのであって、他人や社会全体に対して原資を探し回るようなことをしないからです。自己責任が「責任」であるのは、自らが将来の損失に備えて適切で利用可能なステップを踏んでおくような義務を個人に課すからです。
See クック, 「自己責任」, supra, at 1248.
たとえば家に雷が落ちて焼失するという事故の受損者を考えてみましょう。普通は個人が事前に損害保険を付保購入しておくことで自己責任を果たしています。もし付保を怠っても自由ですが、それで損失を被るのは仕方の無いことなのです。 
See クック, 「自己責任」, supra, at 1249.
判例法上、[t]he doctrine of mitigation of damages(損失非拡大化義務の法理)が認められて来ているのと同様な論理・倫理によって、もしπが合理的な作為によって将来の損害を削除することが事前に可能であった場合には、そのような作為義務がπに課されるべきです。  損失保険を事前に購入・付保することで、将来の事故による損害負担を削除することは可能ですから、自己責任は個人がそのような付保を義務付けていると解釈可能です。  /  リステイトメント上、合理的な出費によって損害の非拡大化が可能であればπはそのような義務を負担すると規定されているのです。  /  将来の事故損失への備えを事前にする義務を課すことは不合理ではありません。たとえば既に私達は、健康を害した場合に備えて健康保険料を負担し付保しているように、損害の非拡大化を行って来ているのですから。
See クック, 「自己責任」, supra, at 1253-54.
将来降ってくる可能性のある自らの損害のマネジメントに参画する義務が、個人には本来的に課されているのです。
See クック, 「自己責任」, supra, at 1255.

ところで、負傷者あるいは受損者に損害非拡大化の義務があるのと同じ考え方で、個人には事故回避義務もあると捉えることが可能ではないでしょうか?

そう言えば、カラブレイジDeanによる有名な「cheapest cost avoider」の理論も、事故回避コストが安い者にその義務を課すという考え方でした。

「自己責任」とは、すなわち、負傷者あるいは受損者にも事故回避義務が存在するのであって、その場合にまで他人や社会全体に損失・責任を転嫁することを認めるべきではない、という価値感・規範(normative ...)と解釈することが可能ではないでしょうか?

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First Up-loaded on Aug. 17, 2005.

パターナリズム」と自己責任: 認知心理学・行動主義からの指摘

アメリカの法律学では、一般に、「パターナリズム」は忌むべきものとされてきました。

しかし、昨今、「法と人間行動学」・「法と認知心理学」といった学際的研究成果の立場から、「パターナリズム」を肯定する動きが現れて来ています。  たとえば以下を参照。

To Be Built.

 

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真≠フ同意が無ければ自己責任が無い、という主張は果てしが無い?!


人生に於ける様々な重大な選択に於いて、たとえば配偶者の選択や、職業・転職先の選択等々に於いて、私達は常に真≠フ同意をした上で、すなわち、完全にインフォームドされた上で、選択をしているでしょうか。 むしろ逆に多くの場合、そんなはずではなかった、それは知らされていなかった、知らされていれば異なる選択をしていたはずだ、と思う場合の方が多いのではないでしょうか。

そしてそのような人生の様々な選択の誤りの結果は私達に非常に大きな影響を与えるにもかかわらず、私達はその結果を受け入れているのです。法はそのような重大な結果に対して救済の手は差し伸べません。

See Viscusi, Hazard Warnings, infra, at 635-36.

上の諸事情との整合性を保って公平な倫理を維持すべきだと考えれば、事故の場合にπ側に真の同意がなかったからと言って自己責任を回避して他人(凵jの所為(せい)にすることは、正しくないのではないでしょうか。

認知的な限界ゆえに仕方が無い、ヒューマンエラーは生じるものである、という考え方を極端に推し進めて行くと、そうは言っても多くの普通の注意深い人々はきちんと危険を回避しているのに、何故にそのような注意を怠る愚者(π)に対して善良な注意深い他の多くの消費者が「補助金」を支払わなければならないのか、という倫理的な疑問が拭い去れないのではないでしょうか。

愚者を救済することがコミュニタリアニズムの倫理に合致するという主張に対しては、救済の方法が訴訟・不法行為という非効率なシステムに依存している点に於いて破綻しています。 なぜなら、救済を目的にするならば社会保障の方がずーっとと効率的ですし、訴訟・不法行為が本来はイノセントな凾ノ対して「敗訴」「有責」という汚点を貼るような不当なコストも社会保障ならば回避できて説得力が増します。

すなわち、真の同意がなかったから凾ノ責任を転嫁できるという主張は、「果てし無く(open-ended)」凾ノ責任を課すことになってしまうので説得力に欠けます。

See Viscusi, Hazard Warnings, infra, at 631 n.8 (Howard Latin, "Good" Warinings, Bad Products, and Cognitive Limitations, 41 UCLA. L. REV. 1193 (1994)を批判しながら、次のように指摘しています。すなわち、ラティンは、人というものの行動には欠点があるのだから、企業が製品特性を変えるように責任を課されるべきである、と主張しているけれども、しかしこのような主張は、「全てが悪い結果に至る」("Everything goes wrong.")というマーフィーの法則=i"Murphy's Law")のようである。「もし何か悪くなる可能性があれば、それは必ず悪い結果に至るのだ」("If anything can go wrong, it will.)という思想なのだ、と).

ところで、真の同意という理想的な状態が現実世界では実現不可能ならば、どこまでインフォームドされれば自己責任と言えるのでしょうか?

所詮は「程度(degree)」の問題なのかもしれません。

そして昨今は、真の同意が無かったと解釈される程度が拡大し、それに反比例して自己責任の射程が狭小化していると、いうことではないでしょうか? すなわちインフォームドされるべきだと社会的に評価される範囲が拡大しているという規範傾向にあることだけは、[立場の違いを超えて]現実であると言えるのではないでしょうか...。

...。

To Be Continued.

See also 佐藤憲一「嫌煙の論理と喫煙の文化」in 棚瀬, infra, at 199-202 (自決権・自己責任とパターナリズムとの相関関係について指摘).

 

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アメリカ法律学上は忌み嫌われて来た「パターナリズム

この点を示すものとして、たとえば以下を参照下さい。

消費者が、たとえ小型車よりも安全で高額な車両を購入できたとしても、小型車を選択します。その選択が十分インフォームドされた上でのものならば、個人は自らの安全性と経済的な利益とを適切にトレードオフする決定をすることができます。このような選択を、安全性の原則ゆえに拒絶することは、パターナリスティックであるとして広く嫌われ、危険の引受のような重要な法的慣行と相反することになります。同意というものは個人の自律・自治(オートノミー)を促進するものゆえに、同意された危険に対して安全性の原則がroutinelyに適用されることを擁護することは難しいことなのです。

Geisfeld, infra, at 123 (emphasis added)(訳は評者).

哲学者の間でも十分にインフォームドされた同意は危険へ晒(さら)されることを正当化し得るという合意が広く存在しているように思われます…。

Id. at 123 n.27 (emphasis added)(訳は評者).

更にGeisfeld,は、個人が直面する危険については、その個人から同意があることこそがもっとも望ましい状態であることにつき、経済学的な理論家も倫理哲学的な理論家も一致している、と指摘しています。

See id. at 186 & n. 27.

なお、同様な概念を、日本で判りやすく紹介して有用なものとして、以下も参照下さい。

佐藤憲一「嫌煙の論理と喫煙の文化」in 棚瀬, infra, at 199-202(「自己決定権」や「愚行権」、「自己責任」の概要・要件を示しつつ、十分な同意の要件を厳格に求めすぎると自己決定権というもの自体が無くなってしまうし、逆になおざりにし過ぎると説得力を欠く等と分析).

更に、アメリカ雇用差別禁止法に於いて、女性に対する性差別の一つとして嫌われるパターナリズムに関しては、以下の評者のページを参照下さい。

アメリカ雇用差別禁止法

To Be Built.

 

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パターナリズム」とは?

既に以下の文献が、「パターナリズム」に関して、興味深い指摘をしているので参考になります。

Thaddeus Mason Pope, Counting the Dragon's Teeth and Claws: The Definition of Hard Paternalism, 20 GA. ST. U. L. REV. 659 (2004).
「パターナリズム」とは、人の利己的な行為を、主にその人自身の善のために(for the good of that same subject's )、制限することです。   パターナリズムは、たとえば、「危険の引受」(the assumption of risk)法理を制限する理由になります。   パターナリズムは、タバコや砂糖や肥満になる食品の規制を許容するか否かという公衆健康増進の動向に於ける中心的規範概念(normative central)でもあります。

See ポゥプ,  「ハード・パターナリズムの定義」, infra, at 660.

ソフト(弱い)パターナリズム」(soft(weak) paternalism)とは、実質的に自発的ではない利己的行為self-regarding conduct ... not substantially voluntaryを制限することなので、[人から自由:libertyを奪うという]倫理に於いて余り問題がありません。 
「実質的に自発的ではない」とは、実質的に自律的に行動していないという意味であり、[本当は]同意していない行為という意味です。
ハード(強い)パターナリズム」(hard(strong) paternalism)は、実質的に自発的な利己的行為self-regarding conduct ... substantially voluntaryを制限するものゆえに、倫理的な問題が生じます。

See ポゥプ,  「ハード・パターナリズムの定義」, infra, at 661-63.

完全な自由すなわち「無政府主義」(anarchy)と、完全な「全体主義」(totalitarianism)との両極端の間に、自由を正当に制限できる範囲が存在します。  /  政府が自由(liberty)を制限できるのは、正当化される理由がある場合のみであり、そのような正当化できる理由のことを哲学者達は「自由制限[正当化]原理」("liberty-limiting principles"とか、「強要正当化原理」("coercion-legitimizing principles") とか「自律性制限原理」("autonomy-limiting principles"と呼びます

See ポゥプ,  「ハード・パターナリズムの定義」, infra, at 666-67.

「ソフト(弱い)パターナリズム」が自由への介入を正当化できるのは、人の行為が以下の何れかに因って判断された場合です。
1. 実際に情報を知らされないで判断した場合(not factually informed)、
2. 適切に理解していないで判断した場合(not adequately understood)、
3. 強要されて判断した場合(coerced)、または
4. その他、実質的に自主的にではなく判断した場合(oterwise not substantially voluntary)。
「真の」判断("real" decision)のみが尊重に値するものであり、「ソフト(弱い)パターナリズム」は真の判断を制限するものではないのでソフトなのです。すなわち「ソフト(弱い)パターナリズム」は自律性に反するのではなく、むしろ自律性を保護し、かつ促進することを助けるものです。 ですから「ソフト(弱い)パターナリズム」は、真の意に反してまでも制限を正当化するものではないので、本当の意味でのパターナリズムではなく、同様に本当の意味での「自由制限正当化原理」でもありません[何故ならば、真の意に反していないのですから]。   /   スチュアート・ミルが示した「ソフト(弱い)パターナリズム」の古典的な例示としては、崩壊しそうな橋を知らずに渡ろうとする人を捕らえて引き帰えらせても自由の侵害には当たらない、という説明があります。その人は橋が落ちて川に落ちようとは願っていないはずですし、橋の危険性を知らないのですから、そもそもが完全に自由でも自律的でもなっかのですから。  /  ソフト(弱い)パターナリスティックな[法]規制は、人の真の嗜好をその人の判断にきちんと反映させることを確かなものとすることによって自律性を保護するのです。     【評者コメント】
【評者コメント: アメリカを中心とする最近の法律の傾向が、インフォームド・コンセントや、重要事項説明義務や、警告義務等を肯定しつつ、逆に、「危険の引受」や「寄与過失」などのπ側の帰責性を責任判定に於いて無視あるいは軽視する傾向にあることを、上の指摘は説明できる倫理哲学となるのではないでしょうか?
禁煙したくても必要な強い意思が人々に欠けている場合、禁煙を強制してもそれは嫌がる人々に善を強要することにはなりません。人の真の目的を達成させてあげるために強要という手段を用いているだけなのですから。【評者コメント】
【評者コメント: この分析は、マ○ド○ルド肥満訴訟の正当性を考える際の、大きな手掛かりになるのではないでしょうか?

See ポゥプ,  「ハード・パターナリズムの定義」, infra, at 670-72.

なお、自由の制限に当たるパターナリズムと自由の制限には当たらないそれとの区別に関して議論があります。 すなわち「教育」(education)「アドヴァイス」(advice)「合理的な説得」(rational persuation)といった単なる情報提供によるパターナリズムは、個人の自由を制限していません。しかし、力や強迫(force and threats)を用いると、自由の制限になる[ので「自由制限正当化原理」が必要]という指摘があります。

See ポゥプ,  「ハード・パターナリズムの定義」, infra, at 672-77.

実質的に非自発的な行為ならば常に「ソフト(弱い)パターナリズム」が正当化される訳ではありません。正当化されるためには、自由を制限するに当たって、agent[規制を執行する者]に以下の何れかの動機が備わっていなければなりません。
1. 本人が同意していない危害あるいは利得の追求の懈怠から本人を保護する[という動機]、または
2. 該危害あるいは懈怠に対し真に同意していることを確かにしあるいは確認する[という動機]。

See ポゥプ,  「ハード・パターナリズムの定義」, infra, at 678.

ハード(強い)パターナリズム」には、政府による強行規制としてのシートベルト着用、オートバイ乗車時のヘルメット着用、ワクチン接種、ギャンブル規制、アルコール規制、およびタバコ規制等があります。  /  パターナリズムに言及してきた哲学者には、歴史的にジョン・ロック、スチュワート・ミル、H.L.A.ハート等が居ますが、ハード・パターナリズムを紹介したのは1971年のFeinbergの論文です。  /  筆者[ポゥプ博士]は、ハード・パターナリズムを以下のように定義します。以下の4つの要件を自由制限agentが満たした場合がハード・パターナリズムである、と。
1. 故意に本人の自由を制限し、
2. 本人の福祉に寄与すると信じるがゆえに自由を制限し、
3. そのような慈善的動機(benevolent motive)は、本人の嗜好を無視・無関係・独立したもの(independent from and without regard to the subject's contemporanious preference)であり、かつ
4. 本人が実質的自発的に行為している事実を無視するか、あるいは、本人による実質的自発的な行為を意図的に制限すること。

See ポゥプ,  「ハード・パターナリズムの定義」, infra, at 678-84 & n.106 (Joel Feinberg, Legal Paternalism, in PATERNALISM 3 (Rolf Sartorius ed., 1983).を出典表示しながら).

「1.故意に本人の自由を制限する」とは、たとえば「エホバの証人」の患者と知りながら医師が輸血を行うことです。
「2.本人の福祉に寄与すると信じるがゆえに自由を制限」するとは、自由制限の理由を問うものであり、本人への危害を回避させたり、本人の利得を促進してあげたり、本人の善を促進したりという、agentの動機のことです。  / それは慈善的な動機であり、本人[規制対象者の意]への善を求める点に於いて、独裁者が規制対象者への善に関心がない点と大きく異なります。  /  [ハード]パターナリズムに必要なのはbenevolenceであって、それは必ずしもbeneficenceとは限りません。前者は、本人の善(bene=good)を促進する意思(bolence=will)が必要ですが、本人に善(bene)が実際にもたらされる(facere=do)ことまでは要求されていないからです。  /  規制の動機が「本人へ向かった」慈善でなければならず、本人以外の人への慈善が動機の場合は、ハード・パターナリズムに該当しません
「3.本人の嗜好を無視・無関係・独立したもの」とは、ハード・パターナリズムを贈与(gift-giving)や寄附(charity)、博愛主義(philanthropy)等の一般的な利他主義(altruism)と区別する要素です。  /  本人の自由にagentが介入する理由は、自由が制限されるべき状況に於いて本人が如何にふるまうべきかを、agentの方が本人よりもより良く知っていると思うからです。
「4.実質的自発的に行為している事実を無視するか、あるいは、本人による実質的自発的な行為を意図的に制限する」の要素に関連して、通常、哲学者は、ハード・パターナリズムとソフト・パターナリズムの相違を、前者が実質的自発的行為を制限し、後者が実質的非℃ゥ発的行為を制限する点に求めます。  しかし筆者[ポゥプ博士]は、本人が実質的自発的に行為していることをagentが知りつつ規制する場合のみならず、実質的自発行為か非自発行為かの違いを留意せずに(=無視している場合)にもハード・パターナリズムに当たる、と考えます。  /  まず通常の哲学者の説を説明すると、自発的行為か非自発的行為かの差異を求めようとしても、そもそも人間行動というものは、ほとんどの場合、完全に自発的ではないので、「実質的」という程度=idegree)の概念を定義に持ち込んでいる訳です。すなわち「実質的」に自発的だといえない場合はハード・パターナリズムに当たらない[ので比較的容易に規制が許容される]のです。たとえば幼児とか植物状態(vegetative state)[のように-- non-autarchic --行為制限者の保護?]のような場合とか、強迫のような[自由意思への]操作(manipulation)から完全に[意思が]自由でなければ実質的に自発的ではないことになります。【評者コメント】  /  以上の通常の区別に於いては、実質的自発的行為を制限する場合がハード・パターナリズムに当たりますが、筆者[ポゥプ博士]はそれに加えて更に、実質的非自発的行為か、あるいは実質的自発的行為であるか否かをagentが無視して独立して規制を押し付ける場合でも、本人による選択権を保護しようとせず、本人の選択は悪いとagentが決め付けているので、ハード・パターナリズムに当たると主張しています。すなわち本人の実質的自発的意思に反する(contrary to)場合でなくとも、、本人の望みを無視し、本人の意思に独立(independent of)してagentの判断を押し付ければ、ハード・パターナリズムに当たるという訳です。たとえば泥棒が本人のネックレスを盗んだと仮定し、実は本人は翌日にその泥棒にそのネックレスを贈与するつもりだったとしても、泥棒であることに変わりは無く、つまり結果的に、将来、泥棒に対し所有物を譲渡にしようとする本人の意思がたまたま一致していたとしても、agent(泥棒)が本人の同意を得ようとせず(the agent fails to pursuant to the subject's consent)、結果的に本人自身が決定権をコントロールする権利を尊重していない(fails to respect the subject's right to control her own decision)という点に於いて、agentは独立して行動しており、ハード・パターナリズムに当たる、と筆者[ポゥプ博士]は説明しています。
【評者コメント: たとえば日本国民法でも、行為能力制限や強迫の場合の取消規定等を通じて、ソフト・パターナリズムは実現していますが、上で指摘されている意思の「操作」の範囲を強迫などの明白なものより拡大解釈して、たとえば広告宣伝等により認知心理学的・行動主義的法と経済学的に人の行動が「操作」されていると看做せば、パターナリズムを通じて保護範囲を拡大することが理論的に可能になるでしょう。すなわち、どこまでが「操作」されたといえるのかという問題は、どこまでが実質的に非自発的行為かという問題同様に、程度(degree)の問題であり、従って線引きが困難な気がします。どこで線引きをするかは、最終的には価値観の相違、規範の相違ということで決するのかもしれません...。

See ポゥプ,  「ハード・パターナリズムの定義」, infra, at 684-721.

以上、既に「評者コメント」を通じて示唆したように、「法とパターナリズム」という視点から倫理哲学を理解することが、「自己責任」の射程を検討したり、「熱いコーヒーが欠陥であるか」(含、警告義務の射程)とか、「ファースト・フードの食べ過ぎで肥満になった責任が剔、にあるか否か」等の、最近の諸問題を解く際の、一つの拠り所につながるのではないでしょうか。

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First Up-loaded on Aug. 19, 2005.

パターナリスティックな政策の例

安全装置を取り外したπにも救済を。=危険を引受たπに対しても凾ヘ有責。

たとえば、πが電動工具の安全装置を取り外して案の定、怪我を負った場合でさえも、ソフト・パターナリズムを当てはめることにより、凾製造物責任法上有責としてしまう場合のように、衝動的あるいは過った考慮の結果としてのπの決定(impulsive or ill-considered decisions)は、確定的で長期的な意味でのユーザの嗜好(settled or long-term preferences of users)を反映していないと捉える訳です。

州によっては、明らかに危険の引受と解される場合にさえも、パターナリスティックにπを保護して何がしかの損害賠償を許しています。『リステイトメント(第三次)不法行為法:製造物責任』(1998年)の§2 cmt. m, §17 cmt. c & ills. 2に照らしても、安全装置を取り外して使用する虞は予見可能であったという理由で、過失相殺の後にπに何らかの救済が肯定されると考えられます。

See サイモンズ, 「危険の引受の再考」, infra, at 505, 508 nn. 66, 77.

なおリチャード・A.ポズナー判事は、上のような明白な危険に対しても凾ノ責任を課すことが一見するとπにこそ事故回避の責任を課すべきであるというbilateral precautionな場合の思想に反するようであるけれども、実は、凾フ方が事故費用を引き下げるための事故防止費用が安価であるから肯定されるとして、以下のように興味深く解説しています。

This is the doctrine of foreseeable misuse …   A manufacturer sells a machine whose moving parts are not shielded, and a worker is injured when he sticks his hand in them.   He was careless in doing so, the danger being apparent, and yet the manufacturer could have shielded the moving parts, and thus prevented the accident, at a trivial cost.   In many states, he would be held liable to the worker.

ポズナー, 「法の経済的分析」, infra, at 182 (emphasis added).

魅力的なニューサンスの法理 (The Attractive Nusance Doctrine

子供が剪n権者の土地の危険な状態に魅了された場合、その子供の衝動的あるいは未熟な嗜好(impulsive or immature preferences)は危険の引受とは解されず、子供への救済がパターナリスティックに肯定されます。

See サイモンズ, 「危険の引受の再考」, infra, at 505 n. 66.

なお、このAttractive Nusanceの法理は、いわゆる隣人訴訟でも当てはまるべきだったといえるのではないでしょうか?

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First Up-loaded on Aug. 30, 2005.

危険の引受」を巡る論議

First Up-loaded on Aug. 30, 2005.

「自発性」「非自発性」というダイコタミー的区別への批判

人は、自発的に引受たな危険性よりも、非自発的に生じた危険に対して、より大きな危険意識を抱きがちだと言われています。

その例としてしばしば比較されるのが、自動車事故(自発的)よりも旅客機事故(非自発的)の方に大きな危険性を感じると説明されます。

しかし、両者の差異は、程度の問題でしかないという以下のような興味深い指摘をアメリカの法律論文に発見したので、今後の日本にける研究のために紹介しておきましょう。

旅客機事故(非自発的)の方に大きな危険性を感じる理由は、パイロットの行為に対して旅客のコントロールが及ばないという認識された事実が原因であると思われます。しかし自動車事故も実際には多くの人々が落ち度無く[すなわち非自発的に]負傷しているのです。
自動車事故の方が旅客機事故よりも危険度の認識が低く評価される理由は、実際には自動車事故だからといって自らの注意深い運転というコントロールによって回避可能だとは限らないにも関わらず、[ヒューリスティックに因って]表面的には自発的な活動であると認知されてしまう(apparent judgment of voluntariness)ことにより、責任と非難可能性(responsibility and blameworthiness)が高く評価されてしまうことに因るのです。
「自発的」な危険か否かは、以下の三つの要素次第で変化する「程度」(degree)の問題であり、カテゴリカリーに決め付けるべきではありません
(1) 「情報コスト」(information cost)の問題。すなわち、情報の欠如あるいは情報の入手が困難な者にとっては、自発的に危険を引受たと解されるべきではありません。
(2) 「危険削減コスト」(risk reduction cost)の問題。危険回避・削減のための交渉・取引費用が高く付く者にとっても、危険を自発的に引き受けたと解されるべきではありません。
(3) 「危険に見合う対価」(accompanying benefits)の問題。危険を引き受ける対価としては不十分な報酬であると思っても、低賃金を甘んじざるを得ない低階層労働者(low level workers)にとっては、危険を自発的に引き受けたと解されるべきではありません。

See サンスティーン, 「認知と費用便益分析」, infra, at 1081-84.

「危険の引受」の法理

たとえばボールが飛び交って危ない野球場に観戦に行くこと等の、「危険の引受」とは、「自発的」(voluntarily)に危険に遭遇することです。

初期の法理では、行為者が主観的に危険を認識していることは要件になっておらず、認識し得たはずであっただけでも危険の引受に十分でした。

しかし今日では、ある種の行為者による選択は自発的なものではないとされるばかりか、主観的な危険性の認識も要求されています。

See サイモンズ, 「危険の引受の再考」, infra, at 485.

「危険の引受」や、同様な「義務の射程外」という概念は、amusement park等が法的責任を危惧せずに危険な活動を提供できることによって、自律性(autonomy)を促進することになります。自由という価値(value of freedom)が極大化されることに繋がります。功利主義者(utilitarian)的には、自律性は全体的な効用を極大化するための道具としてのみ意味が出て(instrumentally valuable)きますが。

See サイモンズ, 「危険の引受の再考」, infra, at 528.

『リステイトメント(第三次)不法行為法』(200____年)』§___でも、危険の引受の法理は破棄?? 「義務」の射程あるいは「義務違反」非該当などの概念に吸収された???

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自己責任の限界事例

LCC (Last Clear Chance)

自殺志願者が地下鉄に飛び込んだところ、命は助かり、地下鉄を相手に損害賠償請求訴訟を提起。請求が認容されました…

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ファースト・フード肥満訴訟

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とりあえず以下のページを参照下さい。

ファースト・フード(外食)が肥満症を生じさせた損害の賠償責任に関する研究

 

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コーヒー火傷訴訟

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とりあえず以下のページを参照下さい。

熱いコーヒーが欠陥である」というPL訴訟の適否について

 

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参考文献

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【未校閲版】without proof

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