Last revision on Mar. 2, 2003.
関係ページは「ジョン・グリシャム」「法と文学」「スコット・トウーロー」
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中央大学(大学院&総合政策学部)教授
米国弁護士(NY州法曹界所属)
平野晋
Susumu Hirano
Professor, Graduate School of Policy Studies,
Chuo University (Tokyo, JAPAN)
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of America)
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【未校閲】
『コロンビア大学法学紀要』に掲載された論文による分析の紹介 --- 大儀達成のためには規範違反も正当化させるべきだというグリシャムの主張を分析
出典: William H. Simmon, Essay: Pluck: Legal Ethics in Popular Culture, 101 COLUM. L. REV. 421 (2001).
- グリシャムや、TVシリーズの「L.A. Law」や「The
Practice」などの作品における倫理感は、ABAがモデルとして定めて各州にて採択されている分類的で権威的な倫理規範と鋭く相対立している。 Simmon,
supra, at 422.
- 社会において弁護士が占める地位から、たとえささいな弁護士による法違反でさえも、法律専門職に対する公衆の信頼を減じることになり得る、として、実定法への服従を、『MODEL
CODE OF PROFESSIONAL RESPONSIBILITY』は正当化している。これは、エリートによる行動が大衆の信条に大きな影響を与えるという前提に立った考え方である。 Id. at 441.
- しかし、これら[グリシャムなどの]作品が示してくれているのは、エリート自身が思っている程には大衆がエリートの影響を受けはしない、ということである。権威に対して抱く期待がそれほど高くはないので、権威を無視することにそんなに問題は無いのである。そして、倫理的な規範を堅苦しく柔軟性の無いものでなければならないとはとらえず、むしろ、規範よりも更に大きな相対立する価値が危機に瀕している際には、規範は反駁され得るものだと考えがちである。 Id. at 441-42.
- これら[グリシャムなどの]作品が示そうと試みているのは、法曹界によって確立された規範が、より高度[な正義]が危機に瀕している状況に対して 倫理的にもっと説得力のある対応とは、相容れないかもしれないという点である。 Id. at 443.
- しかし、これら大衆小説の主張には限界がある。よく言われる批判は、大衆文化が事態をあまりにも単純化し過ぎるという点である。確かに、クリント・イーストウッドやシルベルター・スタローンが適正手続や現実的限界に一切縛られることなく悪者をやっつけてしまう場面を見ることで満足を得る者も居るけれども、だからといってそれらヒーローの行動様式を現実世界で模倣すべきものだとまでは看なさない。これらファンタジーは、自己的な正義を無理矢理押し通すことの危険性をあまりにも過小に描き過ぎるし、組織的・機関的権威の重要性を過小評価し過ぎである。 Id.
- これら作品における主人公は誰かを助け、更には大きな災難を回避することに役立ったと思っているけれども、実際には制度を変革してなどいないのである。したがって、個人による正義の主導に対するロマンチックな見方と共に、より大きな社会全体に対する深いペシミズムが、これら作品には共存しているのだ。 Id. at 444.
【未校閲】

Up-loading Commenced on June 1, 2000.
1st Proof Read on June 7, 2000.
の紹介 --- グリシャムの描く女性弁護士像がステレオタイプを助長すると批判。
出典: Carrie S. Coffman, Gingerbread women: Stereotypical Female Atttorneys
in the Novel of John Grisham, 8 S. CAL. REV. OF L. AND WOMEN'S STUD.
73 (1998).
- 大衆は、法律のポピュラー・カルチャーものから法を学ぶ、したがって、ジョン・グリシャムの現代小説は、法曹と司法制度に対する社会の態度を反映しているばかりか、社会の表層に影響を与えてもいるのである。 Coffman
at ___ [評者注: この指摘の中の後者は、リチャードA.ポズナー裁判長もその著書で指摘しています。「法と文学」のページの中の「ポズナーの法と文学」の中の「法律を扱った大衆文芸の分析」の項を参照。]
- 当論文の主題は、グリシャムの描く女性弁護士像が、ステレオタイプを強化させ、女性は女としても弁護士としても完全には物事を成し遂げられないのだという観念を永続化させてしまうということを示すことにある。 グリシャムはおそらく、女性が劣った者だからということで意図的にそうしているのかもしれない。 Coffman
at ___ & n. 11
- リチャード・ポズナーによれば、偉大な作家たちの中にもトゥローやグリシャムのように法曹の教育を受けた者や法についての物語を書いた者もいたのである --- たとえば、サー・ウオルター・スコットや、トルストイ、カフカ、ゴールズワージー、そしておそらくはチョーサーも。 Coffman
at ___, n.6 (RICHARD A. POSBNER, LAW AND
LITERATURE 4 (1998)を出典として示しつつ)
- グリシャムの小説は、弁護士とはこういうものであると広く広まった観念を補強するようキャラクターを描いているので、[大衆向けには]説得力がある。 Coffman
at ___
- 小説は[弁護士像や司法制度に関する]大衆の理解について大きな影響力を有するにもかかわらず、その記述内容が正確でなければならないという要件は存在しない。したがって、小説によって歪められた法曹描写が真の法曹を表わすものだと読者に誤解されるおそれもある。 Coffman
at ___
- 法曹に対する大衆の知識は、ニュースやテレビや映画、あるいはある程度、といっても少なからざる影響力を持って、グリシャムのような小説によっても影響を受けるものだ、とアメリカ法曹協会は指摘する。グリシャム自身、「ナチュラル・ボーン・キラー」殺人事件に関して、映画が殺人犯の行動に影響を与えると言っている。この事件では、LSDをやっていたオクラホマのカップルが「ナチュラル・ボーン・キラー」を何度も何度も観た後に殺人を犯したというもので、グリシャムはその被害者ウイリアム・サヴェージさんの友人だった。[グリシャムは、次のようなコメントを述べて、オリバー・ストーン監督の同映画が製造物責任を問われ得ると示唆している。]
映画は、創作されて市場に持ち込まれる、一種の製品だと考えてみたまえ。それは、豊胸移植[手術の欠陥シリコン]とさして変わりないものである。法上は、映画は「製造物」であるとまでは未だ宣言されていないけれども、その違いはほんの少ししかないのだ。製品が何かおかしければ、その欠陥が製造上のものであれ設計上のものであれ、その結果傷害が生じれば、メーカーが責任を負うのである
と。小説は、ステレタイプを強化してしまうのである。 Coffman
at ___
- グリシャムは、女性が完全な個人および弁護士となることを妨げるようなステレオタイプを増長している。 Coffman
at ___
- [リーガル・スリラーという]ジャンルに私は多くをもたらした、とグリシャムは言っている。すなわち、「[スコット]トゥーローはこのジャンルを切り開いて定義付けた。彼は、『推定無罪』で多くの関心を引き付けた。そこで私はこのジャンルを異なるレベルに導いた。商業的な成功にまで持って行ったのである」と。 Coffman
at ___
- グリシャムは大きな人気と影響力によって、その女性に対するステレオタイプな認識を永続化させてしまう。 Coffman
at ___
- グリシャム作品の中の男性弁護士は、善か悪かの単純な姿で描かれる。倫理的に良い弁護士か悪い弁護士か、という風に男性弁護士は描かれるのである。たとえば『処刑室』のアダム・ホールや『法律事務所』のミッチー・マクディーアは良い弁護士であるけれども、『法律事務所』に出て来る他の弁護士はすべて悪い弁護士である。しかしグリシャム作品に登場する女性法曹では、それほど単純な形は存在しない。 Coffman
at ___ & n. 35.
- グリシャム作品における女性弁護士は、「女性」であることと「弁護士」であることが双方共にきちんと両立していないように描かれている。そこに登場する女性弁護士が「弁護士」として有能で成功していても、「女性」としての個人的な生活は空しく結婚していないように描かれている。彼の作品で女性法曹は、一人として既婚者は居ないのである。女性の職業上の成功が個人生活上の失敗を伴うという描き方は、法職における男性優位主義を助長し、女性が心地良く居ることのできる個人的・家庭的領域へ女性を押し戻することになる。 Coffman
at ___ [評者注: この部分の指摘は大分無理があると思われます。なぜならグリシャムは、『依頼人』のレイジー・ラブのように個人生活での失敗者を女性法曹の場合だけに描いている訳ではなく、たとえば『THE
TESTAMENT』では男性の弁護士が人生の失敗者として登場します。こういう視点の分析をすると、『路上の弁護士』などは意見の分かれるところかもしれません --- 同作品では、社会的身分としては成功していた男性弁護士が、人としての倫理観に目覚めた途端に、社会的地位を失うと共に、妻も夫を捨てています --- どちらかというと妻が悪く描かれている(物欲にとらわれて倫理的な夫の行動を理解しないという設定なので)ようにも思われますが...。]
- グリシャム作品における女性キャラクターは、家庭と家族に結び付けられる伝統的な女性の資質を代表するように描かれてしまっている。男性キャラクターはそういう風には描かれていないのに、である。すなわち男の場合は、「男性」であるということ自体が象徴にはさせられないのである。 Coffman
at __, n. 41
『処刑室』における判事ジュディ: 「女性差別をしていないことを示すための「印」的な女性法曹」
- 『処刑室』における女性判事のジュディは、token(女性差別をしていないことを示すだけのための印)として出てくる。「tokenismとは、望ましくないグループの中で能力のある者全てを採用する気など本当はないにもかかわらず、差別批判をかわすために、望ましくないグループ内の少数のみを仲間に入れてあげる場合に生じる」現象である。 Coffman
at ___
- 判事ジュディの名前(Judge Judy)にしても、その韻をふんだ感じからして子供じみている。この、Judithsを縮めた呼称はそれ自体、幼児性が含まさせられているのだ。グリシャムは、男性の判事を「Judge
Tommy」 とは決して書かないであろう。このようにして、女性を主席判事として配役しても、そこに幼児性を付帯させることによって主席判事が本来有する権威を台無しにしているのである。 Coffman
at ___. [評者注: いわゆる"〜ちゃん"付けで女性職員を呼んではいけない、という議論のことかでしょうか??]
『法律事務所』において唯一かつて採用されて殺された女性アソシエイト: 「キャリア女性が脅威と受け止められてしまうような女性法曹」
- 『法律事務所』においてミッチーは、同事務所がもう決して女性を採用しないときかされる。「彼女は失敗だった」という言葉にミッチーが何故、と問うと、次のような返事が返ってくるのである。「典型的な女性弁護士だったのさ。 .... 全ての生きている男性は性差別主義者であると思い込んで、差別撤廃が自分の使命であると信じる輩。採用して半年後には皆、彼女を憎むようになったけど、辞めさせることもできなかった」と。「彼女は何にでも食って掛かり」、彼女を雇ったことは悲劇だったと続き、ミッチーが「彼女が女性採用の第一号だったのですか?」と問うと、「その通り。そして最後でもある」と応じられている。 Coffman
at ___.
- 上記のような描写は、女性がチームプレーヤーとして不適確であるという、女性にとって不利になるもう一つのステレオタイプを助長している。女性というものの知的あるいは感情的資質はプロフェッションとしての要求に不適切であるとか特定のプロフェッションにしか向いていないという先入観を持たれるので、そのような文化的ステレオタイプは女性にとって問題なのである。 Coffman
at ___
- 何故彼女が法律事務所によって殺されることになったかという理由についてグリシャムは詳しく説明していない。表面的に読めば、知り過ぎたから殺されたと読めるであろうし、深読みすれば、彼女が優秀で、倫理的で、女性だから脅威であるので殺された、と読める。[すなわち、キャリア女性は脅威である、というステレオタイプをグリシャムは助長しているのである。] Coffman
at ___
『ペリカン文書』におけるダービー・ショウ [ジュリア・ロバーツ]: 「男性の保護を必要とする犠牲者型女性」
- 『ペリカン文書』のような小説を少なくとも一つは書こうとグリシャムが思ったのは、奥さんに対してグリシャムが、強い女性キャラクターを描けることを証明したかったからである。確かにグリシャムは、とても有能で将来性のある女性としてダービー・ショウを登場させ、このことから読者は、グリシャムが十分掘り下げたキャラクターを描こうと意図していたと読み取るかもしれない。しかしダービー・ショウ[映画ではジュリア・ロバーツが演じていた]は、伝統的な[女性=か弱い]犠牲者像としてステレオタイプな存在である。すなわちダービーは、彼女を助けてくれるジャーナリストのグレイ・グランサム[映画ではデンゼル・ワシントンが演じていた]の保護がなければ生き残れないのである。 Coffman
at ___
- グリシャム作品では女性法曹が出てきてもその役割は非常に限られているけれども、出てきた場合の姿は常に理想主義者として描かれている。ダービー・ショウもエレン・ローク[『評決のとき』に出てくる主人公の男性弁護士のパラリーガル役を申し出て来る有能なロースクールの女学生で映画ではサンドラ・ブロックが演じていたナイーヴな理想主義で、男性社会のプロフェッションで自分の道を切り開こうとしている。 Coffman
at ___
- 『ペリカン文書』の中でダービー・ショウは、グレイ・グランサムという名のレポーターと接触し、彼はダービーにとって「輝く甲冑を纏う騎士」になるのだ。 Coffman
at ___
- ダービーは、父が航空機事故で死んだ際に事件を代理したアンビュランス・チェイサーな弁護士を過誤で訴えたいと願う女性として描かれている。すなわちダービーは、父のための復讐を願ったことが法曹に入る動機となっており、彼女は父親の権威の下で行動していて、自らの意思[・選択]によっては行動していないのである。そして、保護の手を差し伸べるグレイ・グランサムが、父親の代用としてダービーの前に現れるのである。 Coffman
at ___
- ダービーは、[か弱き女性の]犠牲者像から抜け出すことができないでいる。彼女の選択肢は非常に限られていて、カリブ海でグレイ・グランサムという強いられた保護の下に、世間から隔絶されて余生を過ごさなければならないのである。似たようにカリブ海で終わる『法律事務所』の主人公であるミッチーの場合は、[女性ではないから]保護者が居ない[でも一人で生き残るという設定なのである]。
『評決のとき』におけるエレン・ロアーク [サンドラ・ブロック]: 「誘惑型の女性」
- 『評決のとき』においてエレン・ロアークは、主人公ジェイクの助手役を買って出る。この作品でもグリシャムは、彼女を非常に有能で信頼性の高い女性として描いている。しかしながらこの作品におけるロアークの役割は、男性を誘惑する者[という、女性に対してセックスを結び付けたがるステレオタイプ]であることが判明する。ロアークは、ジェイクの妻が安全のために実家に避難して彼が一人暮らしになった途端に[待ち伏せていたかのような絶好のタイミングで]現れる。 Coffman
at ___. [評者注: でもそこが、ロマンチックで良いのではないのでしょうか...起こりそうで起こらないという設定が、森鴎外の『雁』を思い起こさせるなどと云ったら、純文学をけなしているとしかられそうですが...。それならば、ハーレークイーン・ロマンス的なエンターテインメントの要素を入れているに過ぎないではないか、と考えるのは如何でしょうか?そもそもそういう、直ぐにロマンチックな関係と女性を結び付けることこそがステレオタイプでいけないのである、と云われてしまうとそれまでなのですが...。]
- しかもロアークは、ブラを付けていないのだ...。 Coffman
at ___. [評者注: So what???]
- 当初、ジェイクは、ロアークが女性で良かったという場面が出てくる。もし男性だったら事務所のパートナーになりたいと願われてしまうことが嫌だからである。しかしその後には、彼女がプロフェッションナルであって欲しいと願うようになる --- プロフェッショナルであるというのは、ジェイクの心の中では「男」であるということで、女性というのは「妻」か「母」であるということなのである。 Coffman
at ___.
- ロアークが次にジェイクを「誘う」のは、ジェイクがセックスについて連想する場面においてである。ロアークは誘惑者として常に性的な勧誘をするのである。たとえば、離れ離れになっている妻との電話を終えたジェイクに向かってロアークは、「奥さんが恋しいんでしょう?」と訊ねる。これに対しジェイクは「君が想像する以上にね」と応える。ロアークは応じてこういうのである「あら、想像できるわよ」と。 Coffman
at ___
- さらにあるときロアークは、大胆にも、二人は愛人になれるかしら、とジェイクに訊ね、彼は「ノー」と答える。夕食の後に彼女は一緒にモーテルへ行こうと誘い、そこでも再びジェイクは性的な申し出・誘惑に抵抗する。グリシャム作品の女性法曹は、「女性」と「法曹」とが論理的には両立し得ないという形を採る。グリシャムは、ロアークをジェイクにとっての性的な誘惑・妨害(distraction)として描いている。このような描写は、法曹および一般の双方の読者に対して、女性という生き物は性的な部分の方がプロフェッショナルな能力部分よりも優越するかのようなイメージを与えてしまう。 Coffman
at ___.
- トライアルにおいてジェイクは、ロアークがどのような服装をしてどこに座るつもりなのかと訊ねる。そして、陪審員の誰かの気を悪くしないように、後ろの方に座って居るように命じる。この発言はすなわち、ロアークがたとえ一生懸命に働いても、彼女の重要な役割が陪審員の女性に対する先入観に合わなければその努力が報われなくなることを示している。つまり、グリシャムは、たとえ有能な弁護士であっても女性は特定の服を着て後ろの方で気が付かれないようにしていろと云いたいのかもしれない。 [評者注:女性だけでなく男性も法廷では背広にネクタイが当たり前だし、若手アソシエイトはでしゃばらずに後ろの方でおとなしくしていなければならないという暗黙の掟は当てはまるのですが...。] Coffman
at ___
- ロアークがグレイの背広姿で登場したとき、ジェイクは「女性としてできる限り弁護士らしくした装いに見える」とコメントしている。 (女性法曹の服装については、実際、ジョージア州の女性検事が苦情を次のように申し立てられたことがある。「ジョージア州フルトン郡において地方検事補のナンシーA.グレースは、『トライアルにふさわしい服装を着用する』よう求める申立を受けた。その要求には、膝上1インチよりも長いスカートを履くことや、ロー・カットなブラウスは着ないことなども含まれていた。さらに彼女と対峙する反対当事者側は、『陪審員の誰の前においても彼女がかがんで胸の谷間を見せ付けること』のないように判事が命じてくれるよう望んだのだ。もしグレースの態度が改められなかったとすれば、タンク・トップを来てきただろう」とまで云われている。
EMPLOYMENT LAW: CASES AND MAETRIALS 261 (Mark
A. Rothstein & Lance A Liebman eds.,
1998) (citing Trisha Rnaud, Fulton Country
Daily Rep., Oct. 24, 1995).) この発言は、彼女が「男」としての服を着用しているという意味であ[り、弁護士=男といステレオタイプを表示してい]る。 Coffman
at ___, n.94.
- ジェイクのところに妻が戻るやいなやロアークは病院に入院する形で追いやられてしまうという展開からしても、ロアークがジェイクにとっての一時的な慰み者として描かれていることが強調されている。グリシャム作品に於ける女性弁護士は、結局は、弁護士としても女性としても一人前にはなれないのである。 Coffman
at ___.
『依頼人』におけるレジー・ラヴ: 「母性愛を感じさせる母親型女性」
- レジー・ラブは、プロフェッションと女性が両立し得ないというステレオタイプの象徴である。結局レジーは、自分の理想とする法律実務を諦めて、もっと感情を伴わない分野を探すことになると設定されているので、救われないのである。 Coffman
at ___
- グリシャムは、大衆が弁護士に抱くイメージを少年マークの視覚に代理させている。そしてレジーのキャラクターには、女性が感情的に弱いという点や女性でも能力を発揮できる少ない法律分野を示させているのである。レジーは、子供の権利の擁護を専門にし、養子縁組をやり、幼児虐待や幼児遺棄事件を扱い、「幼児が関係する医療過誤もいくつかは扱う」のである。彼女は子供を失ったことについて自分を責めており、子供達の弁護士を引き受けるのである。 グリシャムは、女性弁護士が依頼人のために専心するけれども、感情的にも深く関与してしまい過ぎて合理的な思考を妨げ、不合理な決定や非倫理的な行動に走るものだと描いている。あまりにも多くの女性弁護士が、女性にこそふさわしいと思い込んでいる分野、すなわち親族法、パブリック・インタレスト系、および刑事被告の国選弁護人などに従事しているが、このような分野では経済的な報酬も低く、そのプレステージも低いのである。レジーが子供のために親族法を扱うというのも、依頼人の子供らを、失った自分の子供の代用にしているに過ぎない。しかもレジーには、セックス・ライフが存在しない。理想的な母親像に合うように、マークのような少年を扱い、セックスや恋愛とは無縁な環境に置かれているのである。だから、たとえ女性としての能力を与えられた女性法曹が出てきても、成人した女性であると共にプロフェッションでもあるという二つの面を満たしてはいないのである。 Coffman
at ___
- 「プロ・ボノ」[公益的で無報酬な弁護活動の意]として子供たちを弁護するレジーの姿を見たマークの反応は、次のように描かれている。「プロ・ボノのことをマークは知っていた。テレビ番組に出てくる弁護士の半分はこれに属し]、報酬も支払われない事件のために一生懸命働くのだ。残りの半分は美人と寝てしゃれたレストランで食事をするのである」と。[訳は評者] この描写では、「男」の弁護士が美人と寝て、充実した人生のための金を稼ぐ力強い者だということになっている。 Coffman
at ___
- マークの上記コメントとレジ−の行動から、グリシャムは二つのステレオタイプを強化することになる。男性の弁護士にとって金は成功と同義である。女性弁護士にとっては、子供の依頼人の利益が金の魅力よりも打ち克つのである、と。 Coffman
at ___.
- グリシャムは、レジーがまず第一に母性的であって、弁護士であることは二の次であると強調しているのだ。 Coffman
at ___
- マーク少年が離れる段になるとレジーは頬の涙を拭い、今後は「不動産の弁護士になろうと思うわ」と言う。レジーが生き延びれる唯一の方法は、母性的な役割を捨てて、より物質主義的なキャリアに進むことだったのだ。金を追いかけることによって、である。すなわち、プロとしての大望と、女性としての不可欠な本質が、両立しないことを、レジーは示しているのである。 Coffman
at ___.
『パートナー』のエヴァ・ミランダ: 「男性依存型な女性」(カメレオン)
- エヴァ・ミランダは、まずは非常に有能で熱心な弁護士として登場する。しかし結局は、自らの真のアイデンティティを持たない「カメレオン」(男性依存型な女性)に変わってしまうことで、グリシャムはまたしても、有能な女性弁護士をインテグレイトした存在ではないものとして扱っている。「男性依存型な女性」とは、女性が自らのアイデンティティを欠き、男性によって定義付けられなければならない者という意味である。したがって「男性依存型な女性」は、周りに居る男性---それが父であれ夫であれ愛人であれ---のアイデンティティをカメレオンのように採用するのである。 Coffman
at ___ & 118_
- エヴァ・ミランダは、父親によって弁護士になるように奨励されて弁護士になる。ここでグリシャムはまたしても[『評決のとき』のロアークのように]女性が父親の影響で法曹というプロフェッションを選択するという設定をしている。そしてエヴァは、直ぐに職を得ることができるのだが、その理由の一つとして彼女のルックスがとても美形であったことを挙げている。 Coffman
at ___ & n.120.
- 本書の題名である"partner"には、『ウエブスター』英々辞典によれば、次のような意味がある。1.「何らかの行動あるいは試みにおいて他の者と共に参加する者」 2.「商業的ヴェンチャーを設立しあるいは維持するために資本を貢献する一人あるいはそれ以上の者」 3.「夫、妻、あるいは愛人。」 本書で"partner"という言葉と関係するのはまず2.の意味で、法律事務所において主人公パトリックの同僚のパートナーたちが裏切りを犯すというストーリーである。さらに、エヴァが、法律事務所でパートナーになってパートナーに占める女性比を変えてやろうという野望を抱いていたこともこの言葉と関係する。 [評者注:う〜ん、評者はこの部分はぜんぜん気が付きませんでした...。ちょっとこじづけのような気もしますが...。] そして、グリシャムが、"partner"という語句をもっとも意味深く使っているのは、エヴァのパトリックとの関係、すなわちエヴァがパトリックの友人であり後に愛人になるという関係においてであろう。グリシャムはエヴァを、パトリックに見習ってパトリックの金を盗むという「カメレオン」として描いている。[評者注:確かにこの部分には賛成します。本書のタイトルは、法律事務所の「パートナー」と、愛人との「パートナー」との、縁語であるというのが評者の感想です。] Coffman
at ___.
- グリシャムは、「[エヴァ]がこの小さなジェット機で運べないくらいの衣服を欲しかった」と描写することで、ステレオタイプな伝統的女性像を押し付けている。この描写を通じて読者は、この時点での彼女の望みが、服に無駄使いすることだけであったと思うのである。 Coffman
at ___.
- パトリックはエヴァが金のある場所を開示するよりもむしろ、弁護士としての倫理規程を破って彼の代わりに刑務所に行ってくれるように頼む。パトリックは、エヴァの愛が無条件であると誤解したからこそ、これほどの要求をするのである。弁護士としてのエヴァには重過ぎる、法を犯すという依頼を、パトリックはエヴァに要求したのである。 Coffman
at ___. [評者注:この分析には、なるほど、と思いました。愛というのは無条件なもの、というのは嘘であり、やはりコンシダレーションが必要だというのは真実(or現実!)なような気がします。]
- 弁護士であり女性であるというエヴァの役割を破らせることでパトリックが二人の関係("partnership")を壊させたのだということに、彼は気付かないのである。 Coffman
at ___.
- この小説は、エヴァが「カメレオン」としてパトリックの行動を模倣することで、完全な「循環」に陥るのである。エヴァはパトリック同様に、金を盗んで新たなアイデンティティを手に入れるという、「循環」が見られるのである。エヴァは[パトリックに]反応する存在であって、自分自身にしたがって行動してはいない。彼女はパトリックの計画を模倣するのであって自分自身の計画を実行する訳ではない。エヴァはパトリックのゴールを盗むのであって、自分自身のゴールを設定したり達成するのではない。だからエヴァは、最初は法律事務所のパートナーを占める男女比を変えようと努力する力強い女性弁護士であると描かれるのだが、結局は思慮を欠いてパトリックを模倣することで法を捨て去るのである。エヴァはグリシャムの描く女性像の典型である。女性であることとプロフェッションナルであることとが両立しない。彼女が個人生活とプロフェッショナル・ライフとの均衡を失い、自らのアイデンティティの確立に失敗したとき、エヴァは女性プロフェッションとして失敗したのである。 Coffman
at ___.
- グリシャムは女性法曹をステレオタイプに描く。女性法曹はtokenであり、脅威であり、被害者であり、誘惑者であり、母性的であり、カメレオンであるのだ。グリシャムは、女性法曹を、最初は優秀なロースクール女学生、女弁護士、あるいは女判事として描き出す。しかし小説が展開するにつれて、女性としての存在とプロフェッションとしての存在の両立の欠如となるのである。もしグリシャムが、女性はプロフェッションとして成功しないのであると直接的に描いたとしたならば、読者は拒否反応を示すであろう。しかし彼はそのように直接的な表現は用いない。注意深くはない読者らが見過ごしてしまうように、女性としての性格とプロフェショナルなアイデンティティとをインテグレイトすることが困難であるという記述の仕方をするのである。グリシャム作品の女性法曹は、プロフェッショナル・ライフと個人生活との衝突を解決できないという記述は、[女性を、] 一貫して明確なアイデンティティを欠く存在であるとらえるステレオタイプな描写になるのである。 Coffman
at ___.
- グリシャムは、女性のネガティヴなステレオタイプを永続させることに対して責任を負うべきである。法曹界において女性の地位が悪いのは、女性に野心が欠けることだけに理由があるのではない。男性優位なプロフェッショナルな世界でのパートナーとして女性はあり得ないというステレオタイプの亡くなることも、女性の成功には重要な要因なのである。 Coffman
at ___.
- グリシャムほどの知性と技能を有する者は、有能な女性が、女性であると同時に優秀な弁護士でもある者として描かれる小説を書いて世に発表する義務があるのだ。 Coffman
at ___.
1st Proof Read on June 7, 2000.

First Up-loaded on Apr. 23, 2000
より。
(出典: Judith Grant, Symposium: Picturing
Justice: Images of Law and Lawyers in the
Visual Media: Essay: Lawyers as Superheroes:
The Firm, The Client, and The Pelican Brief, 30 UNIVERSITY OF SAN FRANCISCO LAW REVIEW
1111 (1996).)
- フィクションの中の主人公が警察の場合その主人公は「力」で悪をやっつけるが、法律家が主人公の場合は法律を操作する技能の卓越さにおいて悪を懲らしめる。Judith
Grant at 1114.
- 『法律事務所』における主人公ミッチーは、その並外れた才能によって個人的な悲劇的境遇(貧困)に打ち克つと設定されている。その尋常ではない強さと能力は、法律を操る技能にある。ポスト・インダストリアルな社会と技術的合理主義の出現により、フィクションにおけるスーパーヒーローは知識と技能的な専門性を有する者になり、ミッチーこそがそんな主人公像にピタリと当てはまる。 Judith Grant at
1115.
- 事務所からファイルを盗み出してマフィアを検挙するための証拠にするようFBIが要請するのに対し、ミッチーはそれが「弁護士・依頼人間の秘匿特権」"Attorney-Client
Privileged Communications"に反するという理由で拒絶する。そしてミッチーはマフィアと渡り合って秘密を守る代わりに...という合意を取り付ける。すなわち、ミッチーとマフィアは紳士的に振る舞い、むしろ正義の側であるはずのFBIの方が非紳士的という面白いプロットである。 Judith Grant
at 1115-17.
- 『依頼人』においても、『法律事務所』同様に、主人公は尋常ではない法律技能にその力とがある。そして悪役は、犯罪者と、悪くなってしまった本来は良い者(FBI)である。現実世界では保護することが難しいであろうマーク少年を保護できたのは、レジーによる法律の駆使であった。かかる法律の駆使・適用は、悪を制服しイノセントな者を保護するという、本来の法の在り方である。 Judith
Grant at 1118.
- 『ペリカン文書』でも、資本主義的な利益至上主義と強大な連邦政府が悪を象徴し、私的な利益のために法を操作する。そしてヒーローは(この小説ではマスコミと法律家)、自らの仕事をきちんとこなすことでヒーローたり得ている。警察もののドラマではルールを破る勇気が勝利につながるのだが、弁護士を主人公にするドラマでは全く逆のことが云える --- 『法律事務所』でも『依頼人』でも『ペリカン文書』においても、ヒーローは共通してrule
of lawを遵守するという美徳ゆえにヒーローたり得ている。もっともその作品に出てくる法律家は皆が良い者ではない。かかるプロットはおそらく、多くの法律家が腐敗しているという事実に突き動かされているに違いない。 Judith
Grant at 1120-21.

1st up-loaded on Mar. 2, 2003.
グリシャム評論本
- MARY BETH PRINGLE, JOHN GRISHAM: A CRITICAL
COMPANION (1997).
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