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『評決のとき』
(構築中 Always under Construction)
中央大学教授(大学院&総合政策学部)および
米国弁護士(NY州法曹界所属)
平野 晋
Susumu Hirano
Professor, Graduate School of Policy Studies,
Chuo University (Tokyo, JAPAN)
Member of the NY State Bar (The United States
of America)
Copyright (c) 2000-04 by Susumu Hirano.
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当サイトは小説家・米国弁護士のジョン・グリシャムの作品の研究、批評、およびそれを通じた法律学の研究・教育用サイトです。

First Up-loaded on May. 19, 2000
Last Revised on May 21, 2000.
1st proof read on May 21, 2000.
『アメリカ法律学協会』誌における英文学教授による分析より。
(出典: Rarph Berets, Symposium: Law and Popular Culture: Lawyers
in Film: 1996, 22 LEGAL STUD. FORUM 99 (1998).
あらすじ
二人の白人(おそらくはpoor whiteで人種差別的)が酔っぱらってピックアップ・トラック[編者注: 屋根なしの荷台が付いた小型トラック]で暴走し、途中で見かけた黒人の少女を輪姦したあげくひどい暴行を加え、逮捕される。少女の父親カール・リー・ヘイリー(サミュエル・ジャクソン)は、二人が法廷に連れられたところを、多数の人々が居る前で、M16突撃銃で射殺し復讐を果たす。殺し[homicide]を犯したことに疑いの余地はない。それどころか、犯行前にこの父親は、主人公の個人開業弁護士"solo
practitioner"ジェイク・ブリガンス(マシュー・マコノーフュー)に犯意を伝えていたが[編者注: ということは"murder"「故殺」でしょうか???]、ジェイクはまさか実行に移すなどとは予想していなかったし、自分も小さな娘を持つ父親としてヘイリーの心情に共感するものがあったため、保安官には犯意を知らせていなかった。
復讐犯の弁護を受任したジェイクは、白人至上主義者のKKKなどからいやがらせを受けながら、白人ばかりの陪審員の前で敢然と弁護活動を展開するのだった...。 Berets
at 103.
- 法曹は普通(特に映画において)、ネガティヴに描かれる。 Berets
at 99.
- 『評決のとき』では、復讐の殺人を肯定するように司法も司法手続も「曲げ」られていて、こんなことが現実世界で広く認められてしまえば市民社会に混乱を来すであろう。 Berets
at 99.
- 司法もののポピュラー・カルチャーでは、登場人物による信念への確信を正当化するためにトピックスが用いられる。たとえば、ジョン・グリシャムの『処刑室』では、死刑廃止の主張をドラマチックにするためにそのトピックが用いられ、『評決のとき』では復讐が殺人を肯定できるかという問題を掘り下げるためにトピックが用いられている。 Berets
at 102.
- 本作品における「無罪」"not guilty"評決は、復讐やvindicationを望む観客の気持ちを満たしはするけれども、法的にはヘイリーを無罪にする根拠はないはずである。 Berets
at 103.
- 『評決のとき』は、グリシャムのもっとも自叙伝的小説である。映画「評決のとき」の製作者は、観客が最後の「無罪」評決を拍手喝采するしかないように、意図的にドラマを盛り上げるよう持って行っている。 Berets
at 103.
- ハリウッドかおとぎ話の世界でしか、ヘイリーが勝訴することはないであろう。 Berets
at 104.
- 自警的・私的復讐を肯定する正義は裁判手続よりも手っ取り早く効率的に見えるけれども、まともな人はそのような正義を現在の司法制度に代えたいと願ったりしない。それなのに、「評決のとき」がその感情的レベルで主張・肯定しているのは、私的復讐なのである。私たちは原始的な正義の観念にしたがって行動することが良いことであると思ってしまいがちだし、そのような物語はドラマの中では比較的害の少ないものかもしれない。しかし、現実世界ではこの種の行動は混沌と無法を招くだけである。アメリカ法の世界では、「陪審無効」?"jury
nullification"という法律用語がある。 jury
nullificationとは、陪審が、常に法を正しく適用しない訳ではないのだけれども、ある場合に特定の事件について陪審が正しく法を適用しないことをいう(O.T.
Simpson事件などの場合)。ヘイリーの事件は、おそらく、このjury
nullificationと見るべきで、私的復讐の正義を心無くプロモートしている訳ではないのかもしれない。 Berets
at 104.
1st Proof Read on May 21, 2000.

グリシャムの描く女性法曹の姿が女性に対するステレオタイプを助長・永続化させるというフェミニズム的視点からの批判
(当論文のもう少し詳しい紹介については、「ジョン・グリシャムへの批判」のページを参照。)
出典: Carrie S. Coffman, Gingerbread women: Stereotypical Female Atttorneys
in the Novel of John Grisham, 8 S. CAL. REV. OF L. AND WOMEN'S STUD.
73 (1998).
『評決のとき』におけるエレン・ロアーク [サンドラ・ブロック]: 「誘惑型の女性」
- 『評決のとき』においてエレン・ロアークは、主人公ジェイクの助手役を買って出る。この作品でもグリシャムは、彼女を非常に有能で信頼性の高い女性として描いている。しかしながらこの作品におけるロアークの役割は、男性を誘惑する者[という、女性に対してセックスを結び付けたがるステレオタイプ]であることが判明する。ロアークは、ジェイクの妻が安全のために実家に避難して彼が一人暮らしになった途端に[待ち伏せていたかのような絶好のタイミングで]現れる。 Coffman
at ___. [評者注: でもそこが、ロマンチックで良いのではないのでしょうか...起こりそうで起こらないという設定が、森鴎外の『雁』を思い起こさせるなどと云ったら、純文学をけなしているとしかられそうですが...。それならば、ハーレークイーン・ロマンス的なエンターテインメントの要素を入れているに過ぎないではないか、と考えるのは如何でしょうか?そもそもそういう、直ぐにロマンチックな関係と女性を結び付けることこそがステレオタイプでいけないのである、と云われてしまうとそれまでなのですが...。]
- しかもロアークは、ブラを付けていないのだ...。 Coffman
at ___. [評者注: So what???]
- 当初、ジェイクは、ロアークが女性で良かったという場面が出てくる。もし男性だったら事務所のパートナーになりたいと願われてしまうことが嫌だからである。しかしその後には、彼女がプロフェッションナルであって欲しいと願うようになる --- プロフェッショナルであるというのは、ジェイクの心の中では「男」であるということで、女性というのは「妻」か「母」であるということなのである。 Coffman
at ___.
- ロアークが次にジェイクを「誘う」のは、ジェイクがセックスについて連想する場面においてである。ロアークは誘惑者として常に性的な勧誘をするのである。たとえば、離れ離れになっている妻との電話を終えたジェイクに向かってロアークは、「奥さんが恋しいんでしょう?」と訊ねる。これに対しジェイクは「君が想像する以上にね」と応える。ロアークは応じてこういうのである「あら、想像できるわよ」と。 Coffman
at ___
- さらにあるときロアークは、大胆にも、二人は愛人になれるかしら、とジェイクに訊ね、彼は「ノー」と答える。夕食の後に彼女は一緒にモーテルへ行こうと誘い、そこでも再びジェイクは性的な申し出・誘惑に抵抗する。グリシャム作品の女性法曹は、「女性」と「法曹」とが論理的には両立し得ないという形を採る。グリシャムは、ロアークをジェイクにとっての性的な誘惑・妨害(distraction)として描いている。このような描写は、法曹および一般の双方の読者に対して、女性という生き物は性的な部分の方がプロフェッショナルな能力部分よりも優越するかのようなイメージを与えてしまう。 Coffman
at ___.
- トライアルにおいてジェイクは、ロアークがどのような服装をしてどこに座るつもりなのかと訊ねる。そして、陪審員の誰かの気を悪くしないように、後ろの方に座って居るように命じる。この発言はすなわち、ロアークがたとえ一生懸命に働いても、彼女の重要な役割が陪審員の女性に対する先入観に合わなければその努力が報われなくなることを示している。つまり、グリシャムは、たとえ有能な弁護士であっても女性は特定の服を着て後ろの方で気が付かれないようにしていろと云いたいのかもしれない。 [評者注:女性だけでなく男性も法廷では背広にネクタイが当たり前だし、若手アソシエイトはでしゃばらずに後ろの方でおとなしくしていなければならないという暗黙の掟は当てはまるのですが...。] Coffman
at ___
- ロアークがグレイの背広姿で登場したとき、ジェイクは「女性としてできる限り弁護士らしくした装いに見える」とコメントしている。 (女性法曹の服装については、実際、ジョージア州の女性検事が苦情を次のように申し立てられたことがある。「ジョージア州フルトン郡において地方検事補のナンシーA.グレースは、『トライアルにふさわしい服装を着用する』よう求める申立を受けた。その要求には、膝上1インチよりも長いスカートを履くことや、ロー・カットなブラウスは着ないことなども含まれていた。さらに彼女と対峙する反対当事者側は、『陪審員の誰の前においても彼女がかがんで胸の谷間を見せ付けること』のないように判事が命じてくれるよう望んだのだ。もしグレースの態度が改められなかったとすれば、タンク・トップを来てきただろう」とまで云われている。
EMPLOYMENT LAW: CASES AND MAETRIALS 261 (Mark
A. Rothstein & Lance A Liebman eds.,
1998) (citing Trisha Rnaud, Fulton Country
Daily Rep., Oct. 24, 1995).) この発言は、彼女が「男」としての服を着用しているという意味であ[り、弁護士=男といステレオタイプを表示してい]る。 Coffman
at ___, n.94.
- ジェイクのところに妻が戻るやいなやロアークは病院に入院する形で追いやられてしまうという展開からしても、ロアークがジェイクにとっての一時的な慰み者として描かれていることが強調されている。グリシャム作品に於ける女性弁護士は、結局は、弁護士としても女性としても一人前にはなれないのである。 Coffman
at ___.
