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『レイン・メーカー』
(構築中 Always under Construction)
中央大学教授(大学院&総合政策学部)および
米国弁護士(NY州法曹界所属)
平野 晋
Susumu Hirano
Adjunct, Graduate School of Policy Studies,
Chuo University (Tokyo, JAPAN)
Adjunct, Faculty of Law, Meiji University
(Tokyo, Japan)
Member of NY Bar (The United States of America)
Copyright (c) 1999-2004 by Susumu Hirano.
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当サイトは小説家・米国弁護士のジョン・グリシャムの作品の研究、批評、およびそれを通じた法律学の研究・教育用サイトです。
First Up-loaded on May 23, 2000.
Last Revised on May 23, 2000.
1st Proof Read on May 24, 2000..
より。 --主人公ルーディ・ベイラーによる法学教育批判に焦点をあてて--
出典: James R. Elkins, Law and Literature: A Collection of Essays
on John Grisham's The Rainmaker: Troubled
Beginnings: Reflections on Becomming a Lawyer, 26 U. MEM. L. REV. 1303 (1996).
- 古典的な法思想は、クリティカル・リーガル・スタディーズ、フェミニスト法学、批判的人種理論、およびその他の批判的な法律「学派」によって批判されてきた。「法と言説」という研究分野は、批判的な立場として10年前から現れたものである。ルーディ・ベイラーは、ポピュラー・カルチャーと「フィクション」もまた、法的な行動に対して批判的な立場を採ることを思い起こしてくれる。本稿では、ベイラーが法学教育に対して抱く批判的立場に焦点をあてる。 Elkins
at 1304.
- 『レインメーカー』は、ベイラーが何故弁護士になろうと志したかを記述する、次の部分から始まる.。
僕が弁護士になろうと堅く決心した(irrevoxably
sealed)のは、父が法職を嫌っていることを知ったときだった。 .... 私が父を許せるまでには、何年もかかった。
(編者訳)
フロイト的な[心理学的]分析をすれば、ベイラーは父への反抗を示すために弁護士になったと云えよう。 グリシャムの最初の小説、『評決のとき』でも、同じような反抗が次のように読み取れる。
ウイルバンクス家の人間は、何年もの間、法曹一家で、アイビー・リーグ校[後掲評者注参照j]で教育を受けて来た。 .... ルシアンは、先祖のような法律実務をやろうとは決して思わなかった。今までのウイルバンクス家の法律事務所の依頼人は企業だけに限られていたけれども、ルシアンは刑事弁護士を志望したのだった。彼は、レイプ、殺人、児童虐待、およびその他のありとあらゆる人のやりたがらない事件を望んだのだ。 ....
(編者訳) Elkins at 1305, n.6. (評者注:「アイビー・リーグ校」を卒業したエリート弁護士は、グリシャムの作品ではしばしばネガティヴに描かれがちである。「ジョン・グリシャム」のページ参照。)
- 愛を探し求めていたベイラーは、意義深く、エキサイティングで、輝かしく、行動心を満たしてくれる専門職に頼って行った。この点、もう一人の有名な法職作家であるスコット・トウーローはこう云っている。法職は、ケツを蹴られるような、タフで、素早いものだ、と。 Elkins
at 1307 & n.15.
- 初期のグリシャムのもう一つの小説、『法律事務所』では、ミッチー・マクディーアが、ハーバード・ロースクールを成績優秀で卒業し、そのハードな学業における努力の成果としての収入をできるだけ沢山得ようとする。彼は何かとてもハードなものに獲り付かれているかのようで、もしかしたら誰かに(おそらくは居なくなった父に対して)何かを証明したがっているのではないか、と推察される程なのである。実際、小説の中でミッチーの過去を調べた使用人の法律事務所は、ミッチーが、「貧しい兄と[可哀相な境遇に]同情してくれた親戚によって育てられた」と書かれている。 Elkins
at 1308 & n.20.
- つまりは、きちんと応じてくれないし、愛すこともできない、失われし父親(missing
father)が、息子の心の中に空虚な穴を空け、乾いた状態を産んだのである。この渇きは、「成功」への強い願望へと昇華し、世界に対してかあるいは愛していない父親に対して何かを証明したいという欲求へと変化する。このようにして父[に対して証明する成功]を捜し求めるよう運命付けられたルーディ・ベイラーとミッチー・マクディーアは、「法」を[成功への手段たる職として]発見したのである。 Elkins
at 1309.
- 志が高く、身分上の達成感を求め、かつナルシズムを有する者にとっては、法[職]は魅力的である。法[職]は逃避先であり天国、約束の地であり可能性、そして安定と秩序である。法[の世界]は、田舎から来た者にとって夢の世界での生活を提供してくれる。 ルーディ・ベイラーもミッチー・マクディーアも、田舎から来て天国の町への入場を望む者なのである。 Elkins
at 1309.
...必修で難しい科目はロールクールの最初に履修し、...[卒業年度の最後の学期にあたる]この春学期で履修するのは、冗談と云えるような科目ばかりだ。すなわち、「スポーツ法」、「芸術法」、「ナポレオン法典からの抜粋輪読会」、そして、僕が一番好きな「高齢者の法的問題」である。 ...。
...。
スムート教授は、 ...二十年の間、どの教員も教えたがらないし学生もほとんど採らない科目を、親切丁寧に教えて来た。たとえば、「子供の権利」、「障害者法」、「家庭内暴力ゼミ」、「精神障害者の問題」、そしてもちろん、「高齢者法」もである。 ...。 彼はかつて、「生まれない胎児の権利」という講座までも予定していたけれど、あまりの議論を巻き起こしてしまったので一学期の研究休暇期間を取ってしまったことさえあった。
(評者訳)(評者注:参考までに、「レインメーカーの研究(1)」のページの中の、「あらすじ」の後の「用語解説」の中の「卒業単位取得が容易」という部分の解説参照。) ここでグリシャムは、スムート教授を、リベラル派で自らを無用な者にしている生きた標本として、ステレオタイプに描いている。確かに大学には、学問の自治(academic
autonomy)と恒久的職業保証(tenure)に守られて、変わり者とまでは云わないまでもちょっと違った教授が居るものである。スムートのような教授は、ベイラーが敬遠しシニカルに表現するように、学生には関係無い存在なのかもしれない。 Elkins
at 1311-12.
- ルーディ・ベイラーら学生とスムート教授との間の乖離は、保守主義とリベラリズムとの衝突ととらえることが可能かもしれない。スムート教授に比べて、ロイバーグ教授は学生を惹きつけるスタイルを有しているようである。ロイバーグは「形式を嫌い」、自からを「マックス」と呼ぶように学生に強要する。マックスは何十年もの間ネクタイというものを身に付けたことがなく、クラスでも講義形式は採らない...彼は「パフォーマンス」を演じるのである。「彼はくたびれたジーンズを履き、環境問題上挑発的な[メッセージをプリントした]スエットを着て、古いスニーカを履く。寒いときには、靴下も履くことがある」。(以上、引用部分は評者訳) Elkins
at ____.
- ベイラーはスムート教授を、次のように表わしている。
全ての学生は、一定量の理想主義を抱き、かつ公衆に貢献したいと望んでロースクールに入学したけれども、三年に渡る[ロースクールでの]激しい競争の結果、[学生は]適切な法律事務所で適切な職を得て、そこで七年後にはパートナーになって多額の札束を稼ぐこと以外には何も関心を寄せないようになる、というのがスムートの持論である。この点において彼は正しい。
(評者訳) [公衆や正義に尽くすという理想を忘れて、金稼ぎに走ってしまうという]教え子の将来を心配している点においてスムートは正しい、とベイラーは認めているのである。スムートは、理想を失うという事態を思い起こさせているのである。 Elkins
at ___.
- 確かに、大法律事務所が与えてくれる特権や名誉や報酬を夢みて最短のキャリアを突き進もうとする学生にとって、スムート教授は障害(で不必要な者)に違いない。彼は、学生がそれに値すると思っている権力や栄光や自己満足に対してレトリカリーに立ちはだかるのだから。 Elkins
at 1315.
- [弁護士の在るべき社会貢献を説く]スムート教授に対する学生たちの反応は、次のように表わされている。
[高齢者]法は必修ではなく、履修者は始め11名だった。その後一ヶ月の間、スムートの飽き飽きする講義と、金のためではなくボランティアに[弁護活動を]すべきだという[説教が]続くと、僕たち履修者の数は四名に減少していた。 ...。
(評者訳) Elkins at ____.
- リベラルに法律を教えることがベイラーにような学生をして飽きさせる訳ではない。むしろ、スムートによって明らかにされ学生に示された社会[の問題]に対して敢然と立ち向かう意思の無さと能力の無さこそが、学生を飽きさせてしまうのである。 Elkins
at 1316.
ロースクールは、三年という月日の無駄以外の何ものでも無かった。 .... 僕たちは、明日にも覆えされ修正されてしまう判例と制定法を暗記するだけなのである。
(評者訳)(評者コメント: 評者自身の経験では、ロースクールというのはどこかの国のように「暗記」を重視することなど決してなく、むしろ、多くの判例分析を通じて「法的思考力」や「法曹らしい考え方」を学ばせてくれます。
--- グリシャムの学んだロースクールの教育内容は不知ですが、少なくとも評者はそういう「考え方」を留学を通じて学びましたし、そういう意味ではロースクールというのは法曹養成のための価値ある教育を施してくれるところであると思います。) Elkins
at 1320.
- グリシャムの初期の作品[評者注:処女作と云われております]の『評決のとき』に出てくるジェイク・ブリガンスも、法学教育について文句を云っております。いわく、彼はロースクールを憎んでいた --- まともなセンスを持った法学学生ならばだれでもロースクールを憎んでいたのだ、と。ルーディ・ベイラーも、友人のブッカーに対してロースクールを憎んでいると言った際、ブッカーはこう応えるのである、「君はノーマルだよ」と。 Elkins
at 1321.
- 「ブッカーが[高齢者法の実習で老人ホームを皆で訪れて法律相談にのる段になると]、彼は本当の弁護士のようにノートを取り、何をすべきかを正確に熟知しているかのように[老人の]話を聞くのであった」という場面が出てくる。ルーディーにはこういう風に振る舞うことができないのにブッカーにはできてしまう理由は、ルーディによれば、ブッカーが本当の弁護士と一緒にロースクールの外で働いて来たからだ、と云うのである。 Elkins
at 1321.
- ベイラーは、ロースクールを出ても弁護士がやるような実務をやれる能力が身に附いていない、と批判している。多くの法学生は、その知的嗜好が実務に向いているために、パブリック・ポリシーや法哲学、法制史や政治思想や文学的批評や政治的分析などの「理論」を時間の無駄だと見る。学生らは、ベイラーの視点を共有し、「実務的情報」を教えて本当の弁護士がやることの準備を与えてくれる講座と、ポリシーや司法制度や法職への洞察を与えてくれる講座とを、区別して扱うのである。 Elkins
at 1322.
- ベイラーの視点は、法学教育において長きに綿って繰り広げられてきた論争、すなわち実務教育と理論教育の争い、専門職としてのトレーニング対リベラルな教育との争い、における一方の立場を代弁している。しかし、実務教育は法律事務所でこそ最適であるという実務家の考え方は、ミスリーディングである。法律事務所の[問題ある]世界を伝授するような者による教育は、問題の解決にならないのだ。 Elkins
at 1322.
1st Proof Read on May 24, 2000.

First Up-loaded on Apr. 28, 2000
Last Revised on May 10, 2000.
1st proof read on May 14, 2000.
より。
(出典: Amy R. Mashburn & Dabney D.
Ware, Law and Literatutre: A Collection of Essays
on John Grisham's The Rainmaker: The Burden
of Truth: Reconsiling Literary Professional
Mythology, 26 U. MEM. L. REV. 1257 (1996).)
- 本書の主題 ---きちんとした根拠のある主張を持つ貧しく資力のない依頼人と、経験不足の弁護士と、資力が潤沢で強大な企業被告との間の紛争という主題--- は、公正で衡平な紛争解決を構築することに感心を寄せる者すべてに対して、根元的かつ差し迫った問題を突き付けている。 Mashburn
& Ware at 1258.
- 残念ながらロースクールと法曹界は、法職者にとってもっとも厳しい苦難を克服するための助力をほとんど提供しない。ルーディのような弁護士の多くは最初の苦難を生き残ることができず、そのことこそが、(大衆の法曹に対する低い評価よりも)いわゆる法曹危機の本質である、とグリシャム作品は示唆している。 Mashburn
& Ware at 1259.
- ルーディーは[当初]、他のクラスメート同様に大手法律事務所の職を得たいと望んでいた。ロースクールでの就職活動については、普通、ロー・ジャーナルやロー・レヴューの編集員になれればそうでない者よりもより高いステータスな職を得ることができる。ロー・ジャーナルのメンバーはそのほとんどが大手法律事務所に就職する。しかしルーディーは、成績が中以上程度にすぎないばかりか、社会的に下層階級の出身で、その名前も名門の出であることを示す長い修飾が付かないシンプルなものであることから象徴されるように、ロー・ジャーナルのメンバーになれるような身分ではなかった。[評者注:少なくとも評者の留学経験によれば、ロー・ジャーナルのメンバーになれるか否かの基準は出身や門地ではなく、実力---成績あるいは入会試験に合格すること---次第である。もっともメンフィス・ロースクールにおける慣行までは評者も知らないけれども...。] Mashburn
& Ware at 1259-60.
- ロースクール学生の就職人気ランキングは、弁護士らの世界における権威の序列を反映したものになっている。すなわち、ヒエラルヒーの最上部に居るのが、州の中でも大手の、弁護士数も多い、もっともプレスティージャスでリッチな法律事務所である。その次に控えるのは、特定の専門分野のみに特化した、15名程度の弁護士数の中規模な「ブティック事務所」”boutique
firms”である。たとえばルーディーの友人の黒人ブッカーが就職した事務所などは、そのようなブティック事務所に属し、マイノリティの人権訴訟を専門にしている。彼ら中級事務所は、もともと大手事務所に勤めていたけれどもあまりのプレッシャーから独立して友人らと共に開業する30代中頃の弁護士が多い。そして、弁護士界の最下層jに位置するのは、「単独で実務をやるか、あるいは2〜3名の事務所であり、[前述の上層あるいは中級事務所から]あぶれた[メンフィスの]3,000名ほどの弁護士たち」である。ルーディーには残念ながら、恵まれた親の資金援助やコネといった就職上の「セーフティ・ネット」が欠けているため、彼に訪れた不運はたちまちルーディーを最下層の「アンタッチャブル」な階級へと落としてしまう。 Mashburn
& Ware at 1261-62.
- 弁護士の権力と地位と富とは、その依頼人次第で決まってしまう。依頼人が企業などのような組織体で、その潤沢な資金を使ってくれるならば、その弁護士はヒエラルヒーのトップを占めることができる。しかし依頼人が個人であったりすると、下層でちりぢりに散在する小さな存在になる訳である。企業、金持ち、あるいは「エスタブリッシュ」された依頼人に仕えれば、個人や貧乏人に仕える弁護士よりも、より認知される存在たり得るのである。弁護士は、その依頼人の発っする輝きに動かされるのである。ルーディもそんな社会の仕組みに飲み込まれ、階段を転げ落ちた以上は、大手のプレスティージャスな事務所に対する憎しみの関係を有することになる。 Mashburn
& Ware at 1262.
- 企業依頼人は潤沢な資金を持っているから、時間単価の従量制で報酬を支払う余裕がある。そのような企業の弁護士側も、高額な時間単価を請求できる。そして、企業を依頼人とする法律事務所としては、できるだけ多くの弁護士を割り当てて、できるだけ訴訟を遅延させて時間を使わせることこそが利益につながる構造になっている。これは依頼人企業を食い物にしているようにも表面上は見れるけれども、結局は、[個人・消費者が]大企業を訴える際の手間を掛けさせることになるので、大企業に対する訴訟を躊躇させるという利益を企業依頼人側も得ている訳である。 Mashburn
& Ware at 1264-65.
- ステイタスの高い企業側の弁護士達は、依頼人企業が詐欺的で違法な行為をしでかすことに対するチェックをする機能を欠いている。なぜならば、企業側弁護士の関心事は報酬をもらうことにあり、依頼人の利益を最大限化することに心をくだくので、その結果依頼人に迎合するからである。逆に、ステイタスの低い弁護士たち(その多くは個人開業者なのだが)の依頼人は、弁護士に左右され「操作」され易いという弱い立場にある。特に示談を被告側が申し出て来たときの、成功報酬で弁護を依頼している原告はそうである。[その辺の事情は、]ルーディが小説の中で、示談を飲むように依頼人に圧力を掛けないように努力するシーンなどでも示唆されている。 Mashburn
& Ware at 1265.
- もしルーディが被告からの示談提示の誘惑に負けて依頼人を説得しようとしたとしても、ドット・ブラックはそのような弁護士による「操作」に負けることはなかったであろう。彼女は、vindicationを求める意思を強く明確にしていたからである。その意味で、ドットは、普通の貧乏人が圧力に屈し易く容易にやられてしまうというように描かれるステレオタイプとは異なっている。 Mashburn
& Ware at 1265.
- グレート・ベネフィット社の弁護士はしばしば、自分らが依頼人による証拠隠しの犠牲になったと主張している。つまるところ、グリシャムは、巨大企業依頼人とその法律事務所の関係を、有害な共生関係であると描いている。 Mashburn
& Ware at 1265-66.
- エスタブリッシュされた法曹界によれば、法曹という専門職のイメージ低下の問題と実際の問題の双方は下層階級の弁護士たちに原因がある、とされている。すなわち、人身損害賠償の弁護士や、刑事被告側の弁護士や、経験不足で欲深で無能な弁護士たちが悪いという訳である。 Mashburn
& Ware at 1267.
- [法曹倫理でも有名なペン大ロースクールの]Georffey
Hazard教授によれば、弁護士が自分自身にふさわしいと思うポジションの数が足りないという問題がある。 Mashburn
& Ware at 1268.
- 多くの弁護士は、第三の[下層]階級に属している。---
すなわち、ロースクールに入学する前に下層階級に属していて、卒業後もそこから抜け出せないのである。ルーディはこのグループの象徴であり、彼らの声はエスタブリッシュされた法曹界では反映されていない。確かに弁護士は一般に十分な報酬を得ているけれども、大都市で大法律事務所に勤務する弁護士とその他の実務弁護士との報酬の差は非常に大きいのである。 Mashburn
& Ware at 1268.
- グリシャム文学で描かれる[下層階級の]弁護士像と、エスタブリッシュされた法曹界の意見とを比較すると、全ての法曹を一まとめに一枚岩として語ることに疑問が出てくる。本当は全体を代表してはいない特権的な少数の大都会の企業側の法律事務所の弁護士のみが、多様で一枚岩ではない専門職全体のことを語るとき、その内容はエリート的で非現実的な、多数の意思を反映しないものになっていよう。American
Bar Association(全米法曹協会)の立法部会やリーダーたちは、正にそのような少数のエリートの意見ばかりを代弁しているのである。そのような状況下では、「財力豊かな依頼人企業の利益になるようなことを止められないという倫理的問題を[解決したい]」などと、大法律事務所のパートナーである法曹界のリーダーが云うはずがない。さらに、企業依頼人にとっては本来望ましいはずの、弁護士費用を削減するような提言もするはずなどないのである。 Mashburn
& Ware at 1268-69
- ルーディははじめ、低いステイタスの弁護士こそが倫理的に問題ある弁護活動をするものだという先入観を持っていた。すなわち、下層階級の弁護士は倫理的に非常に怪しいことをやり、警察や地方政治家を賄賂で抱き込んだりする、と思っていたのである。そしてレオF.ドラモンドのようなグレート・ベネフィットを依頼人とする大法律事務所の弁護士は、良い弁護士だと本当に思い込んでいたのである。しかし、このような、社会的地位と倫理的行動との関連性に関する思い込みは、直ぐに崩れ去ることになる。実務では、[地位の高い者も低い者同様に]ほとんど全ての者が倫理規程に違反した行動を採っているのである。 イメージと現実の違いを特に明確に描かれているのは、ドラモンドというキャラクターにおいてである。最初彼は、「とっても紳士」"quite
the gentleman"であると描かれていたけれども、デポジションを意味のない申立などで妨害したり、果ては犯罪行為である、盗聴までもやっていると描かれている。 Mashburn
& Ware at 1270-71.
- グリシャムはルーディを同情的に描いている。何と云っても彼はだ若く、家系が豊かでもないゆえに、セーフティ・ネットのないぎりぎりのところで生存しなければならないのである。ルーディは邪悪でもなく腐敗もしていないけれども、それでも倫理的な問題にぶつかるといつも負けているのである。---
自己破産の後、彼は、バイトの代金を現金で支払ってもらって[債権者の差し押さえから逃れるように]「政府を欺く」スキームに使用者との間で合意している。さらに、資格試験に合格して正式に法曹界の会員になる前に、依頼人との間で弁護士としての代理契約を結んでしまうし、資格取得前に法律実務をやってしまうし、無資格の同僚が法律実務をやることを手助けし、不適切に依頼人を勧誘するし、本当は依頼人を代理して訴状の提出などできないはずなのにできます、とブラック一家に言うのである。そして、正に文字通り殺人にまで手を染め、人妻の暴力亭主を殺して警察には嘘を付くのであった。 なお、判事キプラーについても、グリシャムは英雄的な人物として描いてはいるけれども、その判事キプラーもやはり、両当事者[あるいはその代理人]不在の場での一方当事者[あるいはその代理人]との接触(ex
parte)を禁じる裁判官倫理規程違反を侵しているのだ。 Mashburn
& Ware at 1271 & n.64.
- ルーディは、法律実務のプレッシャーによって腐敗していったと云えよう。彼は、ごく自然に、「歯には歯を」とか「終わり良ければ全て良し」というメンタリティに染まっていった。敵側のやり口で圧倒されていたそのやり口を、ルーディも採用していったのである。たとえば、デポの日時を急に変更するというやり口を、ルーディもドラモンド同様に使うことになるけれども、これはルーディいわく、「実務」では普通のことだと受け止めてやるようになる。 Mashburn
& Ware at 1272 & n.64.
- そして、事件の終わりに至ってルーディは、ドランモンドに対し哀れみの情まで感じるようになる。ルーディ自身、ドラモンドに石を投げつけられる立場にない、と自覚するに至るのである。 Mashburn
& Ware at 1272.
- ルーディのように下層階級の者にとっては、法律実務がいやおうなしに運んでくる幻滅を解決することは、他の上層階級の者よりもさらに困難である。 上層階級の弁護士(権威や法曹界の受け止め方などはもっぱらそこからばかりきかれるのだが)ばかりに弁護士の態度を説明させるのは賢いやり方ではない。 Mashburn
& Ware at 1272.
- 残念ながらルーディも、自分を[倫理的に]正しく判断できてはいない。実際、彼はしばしば、自己を正当化し、言い訳を云う。もし彼がhard
ballをplayしなければ、救済されるべき彼の依頼人がアンフェアなシステムの下で敗れてしまう。倫理規程を誰もが破るから、彼もや破るのであり、もし彼が破らなければ競争で負けてしまう、と自分自身を納得させている。ルーディは生き残ることにのみ注力し、誰もが同じように考えて行動したらこの世の中がどうなってしまうかということにはほとんど思いを至jさないのである。グリシャムはそういう世の中を憂い、そういう世の中を描いているのが『レインメーカー』なのである。 Mashburn
& Ware at 1273.
- グリシャムの描く法曹は、「倫理と戦術に疑問を抱くことなどなくなった」者たちで、法曹倫理などは「日曜学校」のロースクール版であるというくらいにしか捕らえていない。ロースクールでは、「法を愛することを教え、法職を名誉ある専門職として扱う」。ロールクールで学生は、法曹が厳しいガイドラインを熱心に執行するものだと学ぶ。しかし卒業生は、直ぐに、ロースクールが教えてくれなかった真実を知るのである --- 法曹は常にルールを破り、そして、ほとんど何もおとがめなしである、と。 Mashburn
& Ware at 1273-74.
- 倫理規程は真に機能する有効性を有さず、ほとんどの場合形式に過ぎないということを、グリシャムは明確にしている。彼の作品に登場するキャラクターは、如何なる同僚 --法曹懲戒委員会であれ判事であれ--、による監視などをおそれてはいない。倫理的に望ましい目的のために、非倫理的な手段を使うキャラクターも出てくる場合はあるが、グリシャムの描く世界では倫理規程の明確な規定が「目には目を」というメンタリティに対して執行されないで放置されるのである。グリシャムの世界で意味のある唯一の罰は、訴訟で敗れることなのであり、ルールなどは現実世界ではどうでも良いのである。グリシャムの小説に出てくる法曹は生き残るためにルールを破り、破ってもほとんどペナルティを科されないことを知っている。 Mashburn
& Ware at 1274.
- グリシャムは、裁判官の役割の重要さを描いている。『レインメーカー』では、二人の判事が出てきて、一人目は原告を憎み、保険会社や大企業を保護し、行き過ぎた不法行為法の改革 [評者注:不法行為改革運動は、原告寄りで訴訟社会になったと批判されているアメリカの状態を直そうという運動であるので、被告・企業寄り=大法律事務所側が主に主導する運動として捕らえられており、個人・消費者・原告側=下層階級弁護士側には面白くない運動であると一般にとらえられております] を支持する。そして二人目の判事は前任者とは正反対で、大法律事務所を嫌い、保険会社の裏を知りぬき、被告企業とその弁護士を喜んで罰するのである。 Mashburn
& Ware at 1275.
- グリシャムは、弁護士によるミスコンダクトを正確かつ詳細に描き、何故それが蔓延しているのかという理由も説明している。ルーディが、他の弁護士同様にルール違反をする理由は、そうする経済的なインセンティヴがあるからである。全ての弁護士は、社会経済的立場による程度の差こそあるとはいえ、ロースクールの理想と、「現実世界」における法曹の行動と、ルールが執行されないという事実との間で、妥協してしまうのである。全体がそのように動くとき、一人で過激な倫理行動を採ることは難しい。 Mashburn
& Ware at 1258.
- ルーディはロースクールの教育に対して批判的である。『レインメーカー』の中にはロースクールについてのネガティヴな記述が沢山出てくる。もっとも顕著な批判は、ロースクールが理想を支持せずに、public
interest lawyersになろうという学生を育てないという点にある。ルーディの学友であるブッカーは、公民権問題を専門にする弁護士になるのだが、「公益に尽くし、不正と戦い、社会を変革する」弁護士になりたいと述べている。しかし読者は直ぐに、ロースクールがそういう理想を学生から追い払ってしまうことを告げられるのである。理想を突き進ませるのとは逆に、より良い社会のために法曹資格を使おうとする学生の意欲を殺いでしまうのである。「3年の激しい競争の末に[学生は]、適切な法律事務所の適切な仕事を得ることだけに感心を抱くようになり、そこで7年働いた後にパートナーになって多額の収入を得ることだけを望むようになる」のである。 Mashburn
& Ware at 1276.
- ロースクールの学生は、入学するなり競争的で自己中心的になり始める様を、グリシャムは明確にしている。「競争こそが互いの進歩につながるのであると学生は感じている」のである。グリシャムが描くように、ロースクールは現実世界を投影した小宇宙であり、その意味では現実的な、法律教育の場であるとも云える。もっとも[パラドックスではあるが]、ロースクールは法律実務訓練の場としては非効率で、時間の無駄である、ということもグリシャムは表現している。3年の勉強の後でも、学生はほとんど何も知らず、「ごく簡単な法律問題をもおそれる」のである。 Mashburn
& Ware at 12:76-77.
- ルーディが出会う実務法曹は誰一人として彼が「良き」弁護士になるように鍛えてはくれないであろう。 Mashburn
& Ware at 1278.
- ほとんどの弁護士は大法律事務所という環境で働くことがないにもかかわらず、ロースクールは学生を大法律事務所で働くように訓練する。大法律事務所で実務される法こそがより洗練され、そこに居る弁護士の方が質が高いという理由で、大法律事務所での仕事こそが望ましという信念を、ロースクールの伝統的なカリキュラムは強くさせしめている。法学教授も、良い成績と、プレステージの高いロースクールでのロー・ジャーナル編集員になったという成果を褒め称え、そのほとんどが中の上以上に居る階層という生まれながらの素質を支持するのである。法学教授らによる改革への抵抗は、結局、大法律事務所におけるプレステージの高いパートナーによる抵抗と何ら変わりはないのである。 Mashburn
& Ware at 1279.
- Jonathan Harrのノンフィクション本である『CIVIL
ACTION』は、7年もの長期にわたる環境不法行為訴訟を描いているが、これを読んでも『レインメーカー』が決して誇張ではないということを知ることができる。『レインメーカー』の最後にルーディが弁護士業を辞めてしまうという展開を所詮は小説のメロドラマ的展開であると思う読者は、ノンフィクションの『CIVIL
ACTION 』を読んでみると良い。後者でも弁護士が「もう事件を扱うことができないことを悟り、ハワイに旅立つ」のである。その弁護士は、自殺することさえ考えているのだ。 Mashburn
& Ware at 1280-81.
- このように法曹フィクションとノンフィクションを読み比べると、伝統的な法曹の価値観ではコントロールし切れない新たなイメージというものが醸し出されてくる。法曹界も、先入感に基づいたレトリックを改めて、多様な事実を認めるべきではないか。ほとんどの弁護士は、生きるために法律実務をやっているのであり、生きる糧を得るということを念頭にして地域社会の法曹倫理が形成されているということを認めたらどうだろうか。さらに、大法律事務所などの上層階級の弁護士以外にも広い階層全体の意見を反映させたり、法職というものを「天職」"caling"としてとらえることを止め、サービス専門職ととらえてみては如何だろうか。 Mashburn
& Ware at 1280-81.
- 法曹倫理も、誰もがやっている倫理的なミスコンダクトに、誰もがやっているのだからと荷担してしまう気を殺ぐような方策に、注力してみるべきであろう。法曹が、一枚岩の同業者専門職団体であるという伝統的な幻想も捨て去るべきであろう。ロースクールも、ほとんどの学生は大法律事務所以外に就職する弁護士としてのトレーニングを授けるべきだという必要性を理解すべきである。学生に対しては、法曹界が新米弁護士を懇切丁寧に徒弟として鍛えるようなインセンティヴを失っていることを教えてあげるべきである。古き良き実務の伝統では、法曹界が丁寧に新人を鍛える代わりに、新規参入者の質も自らが調整することができていたので、その同職組合のイメージの堅持をするというインセンティヴが働いていた。しかし、現在はこのシステムがなくなってしまい、伝統的にアソシエイトを鍛え育ててきた大法律事務所でさえもかかるインセンティヴを欠いている在り様である。 Mashburn
& Ware at 1282-83.
- グリシャムは、『レインメーカー』のような終わらせ方をしつつも、個人の生き方によって弁護士の在り様も異なり得ることを示している。欲や自己中心的意識や階級間の力の差が越え難い傷害になっているがゆえに、法曹界を変えるのは難しいかもしれないけれど、ルーディのような弁護士をもっと沢山生み出して力を与えれば、世の中はより良くなるであろうというところにグリシャムのモラルがあるのかもしれない。ルーディは倫理的に欠点のある人物かもしれないけれども、少なくとも彼は、依頼人を守るための倫理のルールが存在する(あるいは存在すべきである)という理念にさらされ、消費者のための弁護というものが努力するに値するのだという理念にも触れたのである。 Mashburn
& Ware at 1293
Last Up-to-dated on May 10, 2000.
1st proof read on May 14, 2000.

First Up-loaded on Apr. 28, 2000
1st proof read on May 14, 2000.
より。
(出典: Jeffrey L. Harrison & Sarah
E. Wilson, Law and Literature: A Collection of Essays
on John Grisham's The Rainmaker: Advocacy
in Literature: Storytelling, Judicial Opinions,
and The Rainmaker 26 U. MEM. L. REV. 1285 (1996).)
- 小説を書くことは、効果的な法律ブリーフを書くのと同じくらい、「弁論」(advocasy)の要素が入ってくる。弁護士が陪審や判事に対して主張を行なうのと同じように、小説家は作品中の登場人物を読者に「提示」していかなければらならない。「登場人物を弁論する」ということはすなわち、読者が共感を抱くように行動し感受する登場人物を描き出すということである。 Harrison
& Wilson at 1288.
- ステレオタイプなイメージに依存しながら登場人物の描写にアプローチするという手法もある。たとえば、『レインメーカー』におけるミス・バーディとドットは、「母親」であり、母親であることから即、何か良いイメージが付帯して来るのである。 Harrison
& Wilson at 1288.
- ステレオタイプに頼る場合、一般に抱かれているイメージに依存して描写する訳だから、その結果としての作品は大衆文化を映し出すことになる。たとえば、特定の従来のステレオタイプを避ける描写は、もはやそのステレオタイプが大衆に「受けない」ことを示しくれる --- 『レインメーカー』では、黒人は唯一一環して尊敬に値する人達であると描かれているが、これは人種差別がグリシャムには[そして[読者にも]受け入れられないことを示唆している。 Harrison
& Wilson at 1290 n.26.
- 『レインメーカー』における主な悪役は、年輩でリッチな弁護士である。[評者注:この部分のHarrison
& Wilsonの記述は、ドラモンド弁護士が出て来る前の、ベイラーが騙され翻弄される様々な法律事務所の弁護士達のことを指していると思われる。] このような人物描写をすることで、読者はドラモンドが登場する頃までには既に、ドラモンドの存在に[ネガティヴなものを]感じるようになっている。そしてそのドラモンドが保険会社の弁護を引き受けているという事実から、その保険会社に対しても読者がネガティヴな印象を抱くようになる。加えて、かつて南部のハイスクールのスポーツ・ヒーローだった夫クリフがマッチョな暴力亭主になって妻ケリーを傷付けるというエピソードにも、ステレオタイプと大衆文化を一致させるというストーリーテラーのトリックが見えるのである。 Harrison
& Wilson at 1288.
- 本書におけるミス・バーデイの本当の重要な役割は、彼女に対するベイラーの反応を通じてベイラー自身の人物像をより多く描き出すところにある。 Harrison
& Wilson at 1292 n.35..
- 古い南部女、というのがミス・バーディのキャラクター設定である。そもそもこの人物の名前の付け方からして、グリシャムの「弁護」が始まっている --- 「ミス」という呼称はそれ自体、何か古いものを感じさせるのである。 そして、ルーディの目を通じて描き出されるミス・バーディの姿は、ルーディが古き伝統に強く惹かている様を読者に示してくれる。ミス・バーディは孤独な女性で、一緒に居てくれる人を求めている。 Harrison
& Wilson at 1292 & n.37, 1293.
- デック・シフレットは自身の感に頼って行動するタイプで、しばしばその判断には疑問を感じさせるところがある。もっとも生き残りの本能は優れていると云える。法廷で「弁護士である」と嘘を付いてしまうところから、デックはリスク・テイカーであることが分かる。ギャンブル好きなところもそのキャラクターにピッタリである。自尊心などというものは欠如している。デックは何百万ドルもの金を違法にメンフィスからマイアミに移送することを請け負うけれども、それもデックがギャンブラーで移送も一つの計算されたリスクであることが示唆されるのである。 Harrison
& Wilson at 1295-97.
- デックは明らかに違法でリスキーな行為に荷担するのであるけれども、読者はそれを「良い」行為とは思わないまでも何となく許してしまう。グリシャムは、デックが遺伝的かつ社会的にも不幸な星の下に居るように描いている --- 禿げで、小男で、高い声でバツいち。さらには名も知らないロースクールを卒業するのに5年も掛けて、6回もバー・イグザム[法曹資格試験]に落第して弁護士になれず、ギャンブル中毒というのである。 ---
そんなデックがルーディを助け、延いてはドットを助けることになるところを読んで、読者はデックよりも「恵まれた」人々よりはひどい目に遭わないで欲しい、と思うようになるのである。 Harrison
& Wilson at 1297.
- つまりデックは、倫理的にひどい者としては描かれていない。すなわちグリシャムは、法律「実務」における倫理を読者に知らしめているのである --- 本書で読者は、結果良ければ全て良し、そこに至る手段にはこだわらない、という実務を知る。それはあたかもアメリカン・フットボールのようで、捕まりさえしなければ悪くはない、のである。 Harrison
& Wilson at 1297.
- 訴訟の進行においてデックは他とは変わった対応をルーディに提案し、そのようなデックの提案・助力があったからこそ、新米のルーディが経験でも財力でも勝るドラモンドに打ち勝つことができる。しかもデックの反倫理的な行為は、グレート・ベネフィット社のそれに比べれば小さなものである。グリシャムは、デックの人物像を注意深く設定し、かつその人物を肯定できるような背景も描き込むことによって、読者がすんなりと彼を受け入れることができるようにしている。 Harrison
& Wilson at 1298.
- ドット・ブラックというキャラクターは、「怒れる」典型的な南部の労働者階級の女性で、巨大な権威に対して反感を抱き、プライドが高く、失うものは何もない --- すなわちは、[保険会社に対して]反抗することのできる立場に居る。彼女は、物質主義的な幸福を自らの倫理的な怒りと天秤に掛けて「費用対効果分析」などしない人物である。このレベルの倫理的な怒りに対してこそグリシャムはもっとも、「弁護」を与える必要性を感じている。 Harrison
& Wilson at 1288.
- グリシャムは、色々な場面でドットが「小さな」存在であることを表すような表現をしようしている。たとえば、「小さな存在」だ、とか「いつも後ろの方に」居る、とか「テネシー州メンフィスの...小さな女性」である、とか「長テーブルに一人座っていた」とか「誰も居ない法廷で」とか「静かに涙を流している」などという具合にである。 Harrison
& Wilson at 1299.
- ニートな服を着て、初対面の[ルーディに]対し「ハイ、私はドットよ」と微笑みながら手を差し出して話し掛ける[フレンドリーな]ドットと、法廷で「ショート・ヘアにダーク・スーツ、白のワイシャツにストライプ・タイ、そして眉一つ動かさない冷たい顔、といった同じパターンの男ども」の取り巻きを従えた「濃紺のスーツ」を着て「ドラマチックに立ち上がった」ドラモンドとを比較してみていただきたい。このような対比でドットの力のなさを強調することで、グリシャムは読者に[権威に対する]怒りを醸造し、結末に対しての同調を作り出している。 Harrison
& Wilson at 1299-30.
- ドットが次のように述べるシーンがある --- 「彼ら[保険会社]は、私達のことを、単に小さなゴミとしか思っていないんだわ...
私はブルー・ジーンズの工場で30年間働き、組合に入った... ご存知の通り大企業は、力ない人々を搾取しているのよ」と。「私達のこと」とか「組合」とか「力ない人々」などという大衆受けする表現を通じて、グリシャムは、ドットの正義感というものが彼女自身だけのものに留まらず、富を享受できずに正義もなかなか実現されないすべての同じ階級の人々の正義感でもあるのだということを、云っているのである。 Harrison
& Wilson at 1300-01.
- 最後に、パトリシア・ウオルド判事がその論文で書いているように、「判事が事件をどのように裁くかを決めたならば、法はどうあるべきかとその判事が信じる結論に読者を向かわせるように事実と資料をいやおうなく指摘するのである。」プロットに依存する『レインメーカー』のような小説でも、作者は自らの決めた方向に読者を導くように筆を進める。判決文が統一性を保つために「判決」部分と「判決理由」部分とが目に見えない形で関連性を持たされているように、小説でも登場人物と結論との間に関係性が持たされなければならない。この事実は、フィクションと判決意見との間の類似性を想起させてくれる。 Harrison
& Wilson at 1301.
1st proof read on May 14, 2000.

First Up-loaded on Apr. 24, 2000
1st Proof Read on May 18, 2000.
より。
(出典: Romaine S. Scott III, (BookRview)
The Rainmaker, 1995 AMERICAN BANKRUPTCY INSTITUTE
JOURNAL LEXIS 96 (July 1995).)
- 微妙なユーモアのセンスを使っている。プロットと人物のキャラクターは子供でも分かる設定であるけれども、底に横たわるテーマはとてもシリアスである、たとえば、暴力亭主の問題、有効な保険契約に基づく保険金を支払わないという問題、生活苦、等々といった具合に。つまり、単なるエンターテインメントの域を越えた、内容と価値を有する作品になっている。
- 『レインメーカー』においてグリシャムは、『評決のとき』や『法律事務所』とは異なる作風を融合させている。その結果、[『評決のとき』における]ハートと[『法律事務所』における]頭脳との双方を併せ持つ、すべてを満足させる完成されたストーリー・テリングに仕上がっている。『レインメーカー』は、夏の大雨のように沢山の読者を魅了するであろう。
1st Proof Read on May 18, 2000.

First Up-Loarded on Apr. 23, 2000.
1st Proof Read on May 18, 20000.
メンフィス大学ロースクール、アマンダ・エスキバル助教授による分析より
(出典: Amanda K. Esquibel, Law and Literature:
A Collection of Essays on John Grisham's
The Rainmaker: Be Led Not into Temptation:
Ethics Lessons from The Rainmaker, 26 UNIVERSITY
OF MEMPHIS LAW REVIEW 1325 (1996).)
- 法律家の「商品」の内、もっとも価値あるものの一つは、他人のトラブルに対して客観的であり得るという能力である。しかしグリシャムの『レインメーカー』は、法律家が自身と自身の職を見つめる視点に対してアイロニカリーかつ皮肉をもって、挑戦を突き付けている。 Amanda
K. Esquibel at 1326.
- 「アンビュランス・チェイサー」なデックのやり方に対して倫理を重んじるルーディに、デックはこう言い返す。「...
I believe a lawyer should fight for his client,
refrain from stealing money, try not to lie,
you know the basics.」 デックのこの三つの倫理(依頼人のために戦い、盗まず、嘘を付かないように努力すること)は、弁護士の倫理の核心を言い当てているのではないだろうか。 Amanda
K. Esquibel at 1328-29.
1st Proof Read on May 18, 20000.

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