フォード・ピント事件の真相 

費用・便益衡量基準を巡る考察

Grimshaw case and the Cost-Benefits Analysis (CBA) Balancing Test

中央大学 教授 (総合政策学部)
米国弁護士 (NY州)
平野 晋

関連ページは、「大衆の危険意識現代製造物責任法の研究」「現代不法行為法理論」参照。

Susumu Hirano
Professor of Law, Faculty of Policy Studies, Chuo University (Tokyo, JAPAN)
Member of the New York State Bar (The United States of America)
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目次

フォード・ピント事件の真相

評者の総論的コメント

不合理な判断を下す傾向を有する陪審員・裁判官 〜「認知心理学」「法と行動主義経済学」からの指摘〜

危険効用分析を人々が容認しない原因が「倫理ヒューリスティック」にあるという指摘

費用対便益分析の必要性

フォード・ピント事件の真相

掲題の判例は「Grimshaw v. Ford Motor, Co.」 119 Cal.App.3d 757 (1981)です。

この事件は、フォ社の元幹部社員が、ピント車の市場導入前に、安全性を向上させるための設計変更のわずかなコストをケチったという内部告発的な証言をして、高額な懲罰賠償を含む損害賠償が陪審員によって認定された事件です。

一般には、企業が、消費者の生命よりも利益を優先させたと理解され、企業を非難する事例として紹介されています。

法廷映画「訴訟」(原題はClass Action[注*])の題材にもなった事件です。

[注*] 「The Class Action1991年,20世紀フォックス映画。ジーン・ハックマン主演。ジーン・ハックマンは,企業を悪しき存在であるととらえて責任追求するタイプの消費者/原告寄りの過激な訴訟弁護士(リティゲイター)。しかしその娘メリー・エリザベス・マストラントニオは,ビッグ・ローファームの弁護士で,しばしば企業側を弁護する立場に。ジーン・ハックマンが自動車欠陥を理由に製造物責任(PL法)で訴えたメーカーも,マストラントニオが弁護することになります。このメーカーは欠陥があることを知りながらも,自動車を市場に導入していたのです。ジーン・ハックマンによる証拠開示(ディスカバリー)要求に対し,マストラントニオの上司は,膨大な量の文書をハックマンに送りつけてその中に報告書を紛れ込ませ,分からないようにしろと命じます。更にその上司は結局,報告書を開示書類から抜き去ってしまうという証拠隠滅にも手を染めるというストーリー。最後はマストラントニオがハックマンに通謀して,報告書が実在していたという証言をハックマンが公判(トライアル)で導き出し,証拠隠滅が明らかになって被告敗訴に至ります。なお,少し堅い話をすると,マストラントニオは依頼人たる被告メーカーから得た情報をその依頼人を貶(おとし)めるために使ってしまったので,法曹倫理違反です。

しかし、アメリカの有名な不法行為学者による以下の論文は、同事件の真相を一般大衆が誤解しており、本当は被告(凵j企業が懲罰賠償を課される程の責めを負うべきではなかった、という、日本ではあまり知られていない興味深い分析をしていますので、その概要を紹介しつつ、評釈して行きましょう。

Gary T. Schwartz, The Myth of the Ford Pinto Case, 43 RUTGERS L. REV. 1013 (1991).

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原告(π)側弁護士による最終陳述には、力があった("There was real power in the plaintiff's closing argument...")。[評者注*1]すなわち、後突された際にピント車のガソリン・タンクに穴を空けてしまうことになるボルトの存在のことを「カン切り」("can opener")と比喩したり、普通の車ならば付いていたバンパーを同車の設計では「ストリップ」していたと述べたりして、安全性を無視した印象を与えている。   See シュワーツ, supra at 1027-28.
[評者注*1] これは製造物責任訴訟とは無関係なトピックですが、「法と文学」的には興味深い指摘だと評者には思われます。すなわち、後にG.シュワーツ教授が分析するように、本件は、本来、企業凾ェ責められるべきでは無いにもかかわらず、π弁護士によるナラティヴの(物語・説話的な)力も一因となって陪審員と裁判官をして凾ヨの懲罰賠償に導かせたと読めるからです。すなわち、社会科学的な冷静な分析をすれば凾ェ責めを負わされるべきではない事件でも、ナラティヴに情に訴えると社会科学的には不当な結論が導かれる例としても理解できそうだからです。法と文学の研究に於いては、指導的な批判者がそのようなナラティヴィストをしばしば非難しているので、評者には興味深く思われるのです。法と文学に於けるナラティヴィスト批判については、「法と文学」のページの中の「法と文学への主な批判: ナラティヴに情に訴えることが社会科学的では無い、という批判」の項を参照下さい。
大衆には、企業がコストを削減し利益を増加させるために顧客の生命を犠牲にする決定をすることが悪であるという基本的な信念が存在するようである。裁判所も同様であり、例えばグリムショウ事件の上訴審も以下のように法廷意見を述べている。   See シュワーツ, supra at 1035-36.
[フォード社は]、人の生命と身体を企業利益と衡量する費用対効果分析をすることにより、[ピント車の]欠点の補修を遅らせる決定をしたのである。フォード社という機関のメンタリティーは、公衆安全を厚顔無恥にも無視することが示されたのである。フォード社の行為が、消費者公衆の一員に対する傷害の蓋然性を「意識的に無視」したことを表す証拠が相当程度存在する。
...。
フォード社のマネジメントによる行為は、強い非難に値する。その行為は、企業利益を最大限化するために公衆安全を意識的かつ厚顔無恥に無視したことを示したのだ。
Grimshaw, 119 Cal.App.3d at 813(訳は評者).
しかしこのような大衆(および同事件での判事)の考え方は矛盾している。なぜならば、設計欠陥の規範たる危険効用基準では、正に製造者がそのようなトレード・オフをするように奨励しているからである。トレード・オフとはすなわち、製造者がメリットとデメリットとのバランスを得た設計を選択すれば社会の福祉が一般に向上するという哲学である。この危険効用基準はカリフォルニア州[?]の上級審判例によって採用され、『第一次リステイトメント』の時代から採択されていた、Learned Hand判事によるUnited States v. Carroll Towing Co.」事件判決に起因するものである。   See シュワーツ, supra at 1037-38.   [評者注*2] 
[評者注*2: 「危険効用基準」やLearned Hand判事によるハンド・フォーミュラについては、評者の「現代製造物責任法の研究」内の「欠陥基準」を参照下さい。後者については「法律用語解説:リーガリーズ」内の「Hand Formula」の項も参照下さい。なお「Carroll Towing Co.」事件が下されたのはカリフォルニア州ではなく、連邦控訴裁判所第二巡回区(NY州等の連邦地裁を管轄)である。] 
大衆は、「生命は価値を付け難い」という概念に服しているので、危険効用による衡量過程(process of risk-benefit balancing)に反対してしまうのである。私(ゲイリー・シュワーツ教授)は、危険効用分析が適切なばかりか、不可欠であるとさえ確信している。しかし本件のような問題は、二つの文化の問題("two culture" problem)である。すなわち、危険効用の基準を明らかに受容可能とするパブリック・ポリシー(public policy)的な分析から発展した一つの文化と、その基準を苦痛であるととらえる傾向にある世論(public opinion)の文化とである。[パブリック・ポリシー的な衡量のためには命の価値を計らなければならないけれども]多くの人はパブリック・ポリシーに於ける死の意味に対してアンビバレントな気持ちを抱くのである。それは子供が犠牲者になった事件で顕著に出るように、子供の被害というものは劇的にその痛みを人に訴え掛けるものなのだ。   See シュワーツ, supra at 1041-42.
グリムショウ事件がフォード社に与えた教訓は、人命を費用対効果の統計に用いることをアメリカ人民が許さない、ということであった。確かに、同事件では家族や医師等により、グリムショウ少年がトライアルの前に68回もの手術を受けて、patchwork quiltのようになbadly な傷だらけの顔を含んだdisformalitiesを今後一生引きずることになる、とナラティヴに語っている。普通の人々から構成される如何なる陪審員であっても、グリムショウ少年の傷害が違法な結果ではなく社会的に適切なフォード社の選択の結果だなどと、評議室から出て来て言えると想像することは、全く不可能である。   See シュワーツ, supra at 1043.
多くの人々は、市場分析の基礎を理解するし、企業が国家経済と福祉に貢献していることも理解している。しかし、同時に、企業に対しては本当に不審を抱くのである。この種の不審は「populist」と言い表すことができるものである。しかしこの不審は、アメリカの歴史古くに起源を置き、19世紀前半にまで遡ることができるもので、当時から公衆の中には「魂の無い企業」("soulless corporation")という考えが存在していたのである。   See シュワーツ, supra at 1044.   [評者注*3]
[評者注*3] 企業を悪者と決め付けるアメリカ大衆文化上の偏見が存在することは、評者も、上梓予定のエッセイ『アメリカ弁護士とユーモア』(仮題)の原稿に於いて、既に指摘しています。
企業法務の研究」のページの中の「企業性悪説」の項を参照下さい。
ピント車は一般にアイアコッカの車("Lee's car")と呼ばれていた。彼は、フォード社の取締役会を説得してピント開発に漕ぎ着けて副社長に昇進したのである。ピント車の開発段階に於いて、「2000の限界」(limits of 2000)という目標、すなわち、重量を2,000ポンド以下にし、かつ、コストも2,000ドル以下にするという小型車企画の目標を立てたのもアイアコッカだったのだ。グリムショウ事件に於ける欠陥主張の争点であったピント車の燃料タンクの仕様をアイアコッカ自身が知っていたという直接証拠は見当たらないが、πの立証で得た一般の感触は彼が知っていたはずだというものだった。ピント車がリコールされることになったわずか一ヶ月後に彼は解雇されたのである。それだけピント車に深く関与しておきながら、彼は見事にクライスラー社に転職をしてヒーローになってしまった。   See シュワーツ, supra at 1044 n.127.    もっともアイアコッカは[有名な]自伝の中で、「数ドルをケチるために危険を知りながら車を作ったという主張は全く真実では無い」と書いている。 シュワーツ, supra at 1036 n.91.
もっとも消費者は購入するピントがどれだけ危険であるかを知らされていなかったのであるから、消費者が市場原理に従った選択をしたことにはなってない。その限りに於いてピント神話に示されている大衆の抱く当該メーカーへの非難は、まんざら伝統的な経済分析に反している訳ではない。   /   更にピントの危険性に関する情報を消費者が欠いていたのであれば、消費者とメーカーとの間の利益の分配にも影響が出てくる。消費者が危険性を知らなかったためにコストを浮かせることができた部分がメーカーにとっての利益になったという訳である。こう考えると、「命を犠牲に利益を得た」事例(an instance of "profit over lives")という、ピントに抱く大衆イメージが肯定されよう。犠牲者となり得る者が同意したり引き受けたリスクと、そうではなくてリスクを課されてしまった場合とでは、大衆が全く違う感触を抱くことは、多くの者が指摘している。   See シュワーツ, supra at 1046-47.    [評者注*4] 
[評者注*4]   G.シュワーツ教授の指摘するように、隠れた危険性を知らしめる義務という概念は、製造物責任法を検討する際に重要です。例えば、ファストフードの食べ過ぎによる肥満症等の疾病を理由にファストフード・チェーン店を訴えても請求が地裁レベルで一端棄却されてしまった裁判例と、タバコ訴訟に於いて遂にπ側が勝訴した裁判例との相違点を考えると、前者は明白な危険性をπが引き受けたから救済されず、後者では中毒性のあるニコチンに関する情報をタバコ会社が隠蔽したり操作したことから刳驪ニが敗訴したという差異があり、つまりは、「危険性の明白さ」対「隠れた危険性」という点が分岐点だったという分析が可能です。この点については、以下の評者のページを参照下さい。「「ファストフード(外食)により肥満症を生じさせた損害に対する賠償責任の研究
そこで危険性を消費者に知らせるべきであるけれども、警告欠陥訴訟を通じて個々の裁判に警告義務を委ねれば過剰警告になって、本当に必要な危険性の警告が希釈化してかえって製品使用の安全性が全体として下がってしまうから望ましくない。訴訟に委ねるよりも、むしろ、安全法規(safety regulations)を通じて一律に、ディーラー(小売店)に於いて消費者に対し、危険性を告知する義務を課した方が望ましい。ちょうど、燃費表示を法規で義務付けるのと同じ要領である。   See シュワーツ, supra at 1048-57.      [評者注*5]
 [評者注*5]  安全法規によって抑止力は担保すべきとのG.シュワーツ教授の立場は、評者と同じです。訴訟は取引費用が掛かり過ぎて不法行為法の目的の一つである賠償を達成する上でも非効率であり、かつ、基準も曖昧なので抑止目的達成上も効果的ではありません。詳細は評者の単著『...新展開』等を参照下さい。
「人間の生命身体と企業の利益を秤をかけた」("balancing human lives and limbs against corporate profits")という表現は、実は、安全向上のコストを仮に掛けていたならばそれが全てフォード社の負担になるということを当たり前の前提にしてしまった論理であって、かかるコストが消費者に転嫁されないと前提している[ので短絡的かもしれない。] 安全性向上をせずにコストを削減できた分は、前掲の「2000の限界」(価格を2,000ドル以下に抑えるという企画目標)を考えると、安全性向上コストを削減したことにより価格が抑制されたことになったとみるべきだから、するとコスト削減の分の利益は消費者全員に分配されたことになるのだ。すなわち、安全性を向上させない利益は直接には低価格によって消費者に享受された上に、売り上げ台数がすごく伸びて相当数を売った結果としてやっと出てくる利益によってフォード社が間接的に享受できた、と分析する方が正しい。   /   正当な評価をするためには、安全性向上のためにフォード社が[消費者に転嫁せずに]負担するコストがいくらになったはずかというデータと、もしそのコストを掛けていればどれだけの数の身体生命が救われたかというデータが必要なのである。   /   アメリカでは毎年1,000万台の自動車が売られているので、安全性向上のために1台当たり10ドルを価格上昇させるとすると毎年計1億ドルにも達するが、もしこれで500人の命が救えるとするならば、全ての消費者は10ドルづつ負担しようと言うであろう。しかしもしたった5人しか救われないとしたならば、一人の命の価値(value)が20百万ドルを超えないと見合(worthwhile)わないことになってしまう。しかしこれ程の高い命の価値は、現在のあらゆる推定価値の最高額をも超えたものである。従って、消費者が極端にrisk averseでなければ、消費者がそのコスト負担に対して不満足になる。従って[短絡的に]一台辺りわずかなコスト負担の安全性向上さえしていれば[πが助かったはずである]云々という表現は、問題の解決にはなっていないのであって、安全性向上で得られるmagnitudeを検討しなければ駄目なのだ。   See シュワーツ, supra at 1059-61 & n.178.   [評者注6] 
[評者注6]   非常に鋭い分析ではないでしょうか。すなわち、設計に於ける選択の効果は、価格や利便性など、消費者の利益や不利益に複雑な影響を与えます。安全性向上は価格上昇や利便性低下につながるのですから、消費者にとって全て良いことにはならないという厳しい現実があるのです。それが、設計選択・設計欠陥を判断する上での難しいところです。
本件に於いて正しい危険効用分析を当てはめると、一台辺り9ドルの安全性向上コストが掛かったので1971〜76年までのピント車の販売台数2百20万台に乗ずると、総コストが20百万ドル上昇するので、このコストで一体どれだけの人数が救済され、かつ一人当たりの価値はいくらなのかを、陪審員は検討しなければならなかったはずなのである。   See シュワーツ, supra at 1061.
しかし陪審員による企業への偏見や、そもそも事故が起きてしまって被害者の悲惨さを目の前にしているところでex anteな判断を求めることの難しさ(すなわち事故発生の蓋然性が少なければ責任が課されないという危険効用判断を本来は肯定すべきところが、実際に事故の被害者を目の前にするとそのような冷静な判断が困難になること)を考慮すれば、発生前のex anteな段階での蓋然性を過大評価しないような素養は陪審員ばかりか判事にさえも備わってはおらず、被害者に賠償を与えようというように傾きがちである。これこそが、危険効用基準を用いて防御しようとする凾ェ直面する訴訟管理上の障害なのである。   See シュワーツ, supra at 1062.
このように、裁判の現実は、過失責任主義に基づく危険効用基準が規範として目指す目的を達成させていないという問題がある。設計欠陥の検討に於いて実際には厳格(無過失)責任という過剰な責任を課されてしまうことになり、受け入れがたいものである。     See シュワーツ, supra at 1065.
もっとも現状は、過失責任による危険効用基準が全く機能していない訳ではない。過失責任は、まず、トライアルに行く前のスクリーニングの役目を果たしている。例えば、ナイフで事故が起きた場合にナイフ製造者に責任を求めるような訴えはこの過失責任の基準を用いたスクリーニング段階で請求棄却が下されて陪審裁判まで到達しない。しかしこのハードルを越えてしまう事件については、陪審裁判によって危険効用基準の目的を達成できない厳格(無過失)責任の判断を下されてしまう。しかし、そのような現実をフォード社は織り込み済みで、危険を防止するためのコスト負担をするか、または、賠償の責に任ずるか、という判断を下しているはずだから、たとえ真の危険効用の衡量基準の目的からは離れているとはいえ、社会的には許容範囲内なのである。  See シュワーツ, supra at 1065-66.
ピント車はすばらしい車でもひどい車でもなかった。小型車の中では中頃に位置する。この事件に於ける懲罰賠償は正当化し難いものである。フォード社は主に安全性をコストと衡量したことをもって懲罰賠償を課されたけれども、かかる衡量はprevailingな危険効用基準によって認知されたものだったからである。  See シュワーツ, supra at 1067.
フォード社に責任が課されたのは、大衆による企業への不信も影響していると見るのはまんざら誤りではない。しかし大衆が責任を課したのは市場原理に反しているとは限らない。設計に潜む特別な危険性を消費者は知らなかったのであり、生命に影響を与える危険性に関するフォード社の設計上の選択につき秘密であったことが、ピント事件神話(the Ford Pinto case myth)の倫理的な側面を表しているのである。このような分析は警告懈怠というアプローチを示唆し、実際、本件で当てはめられた消費者期待基準には警告という概念が含まれている。そこで本論文では、安全規制による安全情報の消費者に対する提供を提案している。  See シュワーツ, supra at 1068.

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評者の総論的コメント

功利主義に起因する経済学的な合理性の正義の観念は、冷徹な計量・計算を求めてその結果が善であるとします。しかし功利主義・合理主義的であると思われる米国に於いてすら、大衆は(判事も?)情に走って理不尽な判断をしてしまうという鋭い指摘がG. シュワーツ教授によりなされています。

ましてや日本に於いておや、と思わざるを得ないと思いませんか?

例えば、特に日本人には、多数の人間の生命を守るために少数の人間の生命身体を止むを得ず[もちろん止むを得ない場合に限るのですが]犠牲にせざるを得ない状況に於いて、冷静な計算と結論を導き出し難い雰囲気があるのではないでしょうか。【評者注】

【評者注】もっともこのような、合理的な計算ができない問題は、日本人に限らずアメリカ人に見られる、あるいは人に共通する認知科学的な問題であると思われる指摘が、以下のアメリカの法律論文に見つけることができます。
たとえば、20人を救うための唯一の手段が、無垢な一人の命を銃で撃ち殺すことだったらば、あなたは撃ち殺せますか?という問題を考えてみましょう。そのような事態でなければ、通常は、もし他人を救うために必要だとしても、無垢な人を殺してはならない、という直感的な倫理感が上手く機能しています。それが通常、機能しているのは、「必要」性の判断が、信頼できなかったり、自己奉仕的だったりする危険性があるからです。 しかし、上の仮定に於いて本当に無垢な一人を殺すことが20名の命を救済するために必要であるとしたならば、直感的な倫理感がかえって現実との間のねじれを生じさせてしまい得るのです。
See Sunstein, Moral Heuristics, infra, at 1588-89.

優柔不断さは、ときに、多数の生命をも救えないことになりかねない、という冷徹な現実に目を逸らすことは許されないのではないでしょうか。

非常に難しい問題かもしれませんが、冷静に、社会科学として、考えてみる価値のある問題でしょう。

なお、企業が危険効用の分析を行うことは社会にとって望ましいはずなのに、かかる証拠がかえって企業に対する懲罰賠償につながってしまうという問題を批判したハーバード大学教授による説得力のある最近の論文として、以下が参考になります。

W. Kip Viscusi, Corporate Risk Analysis: A Reckless Act?, 52 STAN. L. REV. 547 (2000) (危険効用分析を企業が行ってその結果に従って設計判断を行うことは社会福祉にとって望ましい。にもかかわらず、そのような分析を企業がかつて行ったという証拠が訴訟で出されると陪審員は企業がコストと消費者の生命とを引き換えにしたと捉えて企業に対して懲罰賠償を課してしまうという模擬陪審の結果が出た。そのような事態は社会にとって望ましくないので、陪審員から懲罰賠償を課す権限を取り上げる等のドラスティックな改革が必要である、と主張しています).

Viscusiはこの論文で、たとえば次のように述べています。

Economic analysis of potential safety improvements and environmental precautions is inherently unpleasant and may offend jurors.  Tradeoffs will and must be made.  The unpleasant nature of the exercise does not, however, imply that companies should not undertake such assessments.  Indeed, rational thinking about risks is exactly what we want to encourage.  Such rational thinking leads to warranted safety improvements, rather than other safety measures that raise product price but confer negligible gains.  

Viscusi, supra, at 566.

更に費用対便益分析(CBA)が大衆には好まれないという点について、Hand Formulaの研究者Gilles教授も以下のように指摘しています。

ロースクールの多くの学生も、不法行為法の勉強に於いて費用対便益分析に初めて遭遇したときには、懐疑的乃至憎悪の反応(the skeptical-to-hostile reactions)を抱くものである。 ...。 [大衆の]反感は...製造物責任に於いて[高く]、何故ならば、製造物責任ではディープ・ポケットな企業被告が関与しがちで、かつ、防止費用も製品一個当たりにすれば低廉だからである。 

Gilles, infra, at 859 (訳は評者).

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不合理な判断を下す傾向を有する陪審員・裁判官 〜「認知心理学」「法と行動主義経済学」からの指摘〜

「法と認知科学・行動主義経済学」で説得力のある業績を発表しているシカゴ大学Sunstein教授によれば、人は、判事さえも、不合理な判断を下し得るとして、以下のような実証実験結果を紹介しています。

ワクチンと出産コントロール薬[の副作用・薬害]に関する企業への賠償責任を被験者に想定させて、更に被験者には以下の1.と2.の二つの場合に於いて、企業への責任判断が異なるか否か、を実験してみました。被験者には裁判官達も含まれていました。
1. より高額な賠償責任を課せば、企業がもっと安全な製品を生産するように努力する場合。
2. より高額な賠償責任を課せば企業がその製品を生産することを諦める蓋然性が高く、その結果として、もっと危険な製品が市場に出回ることになってしまう場合。
結論は、1.ばかりか2.の場合にさえも、裁判官達も含むほとんどの被験者が、同じような[高額な]賠償責任を課しました。   
これにより、人は、責任の抑止力に及ぼす効果についてはほとんど無視していることが、明らかになりました。
筆者(Sunstein教授)の考えでは、人はおそらくヒューリスティック(簡便法、認知上の近道)【評者注】の下で、事件の非道さ=ioutrageousness)に応じた罰を求めているのであって、帰結主義(consiquential)的な配慮には基づいていないのです。 通常は凾フ行為の非道さに応じて罰を加えるという原則は正しいかもしれないけれども、その結果として、人間がより安全でより健康になるか否かは構わない、どうでも良い、という程に固執することは、熱狂的過ぎ(fanaticcal)ます。  人は、知らず知らずのヒューリスティッの影響により、不健全な判断を下しがちであるということを意識することは、意義あることなのです。
【評者注: 「ヒューリスティック」という認知心理学上の概念については、「認知科学・行動主義」のページをご覧下さい。】

See Sunstein, Moral Heuristics, infra, at 1571-72 & n.58 (Jonathan Baron & Ilana Ritov, ABout Penalties and Compensation in the Context for Tort Law, 7 J. RISK & UNCERTENTY 17 (1993)を出典表示しながら).

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危険効用分析を人々が容認しない原因が「倫理ヒューリスティック」にあるという指摘

シカゴ大学Sunstein教授は、更に以下のような分析も示しています。

一定数の死者が出ることが判っている場合に、防止策のコストを命と比較することを、人々は倫理的に受け入れません。
自動車会社がある安全策を採用するか否かを検討する際に、危険効用分析を行ったと仮定します。その安全策を採用すればS$100mil.のコストが掛かるけれども、それで救える人命はわずか4名分しかなかったと仮定したとします。その企業は、環境庁(Environment Protection Agency: EPA)により採用されている命の値段(一人当たり$6.1mil.)よりも遥かに高額な一人当たり$10mil.という上限を、安全策コストとして儲けていたので、今回の安全策は不採用になりました。この場合、この企業に対する人々の評価は、厳しく罰(賠償責任)を下すものになります。  むしろ、命と金銭を計ってトレードオフするような危険分析を怠りつつも、人を危険に晒す企業の方が、人々は軽い罰を下しがちです。 このような性向の原因となる倫理は何でしょうか?
それは、人様の命が死に至ることを知りながらその原因行為を続けてはいけない、という日常生活の倫理感です。日常生活ではこの倫理感は上手く機能し、ある活動に従事することで他人が死ぬような行為は止めるべきだということになります。この論理感が、ヒューリスティックの作用により、誤って一般化されて当てはめられると、上のような問題が生じます。すなわち企業が、消費者の一定数が死ぬをことを知りながら防止策を採らないということが、論理的ヒューリスティックによって許容されないという結果になります。それに比べて、危険効用分析を怠る企業は、安全策の不採用により生じる死を知らないので[厳しく罰せられないという訳で]す。
以下のAとBの二つの企業のどちらが重く罰せられるかを人々に問うならば、筆者(Sunstein教授)はA社であると答えが出ると相当確信を持って思います。
A社: 自社製品が10名の人を死に至らしめることを知りつつ、1,000万人の消費者に売りました。その危険性を除去するには$100mil.のコストが掛かったはずです。
B社: 自社製品が100万個当たり1名の死の危険性があることを知りつつ、1,000万人の消費者に使わせました。その危険性を除去するには$100mil.のコストが掛かったはずです。
死人が出ることを知りながら活動に従事する者を倫理的に批判することは、通常は良いことです。しかし問題は、死を生じさせることを知っていることが、特に死が、一般的には望ましい活動から生じる、不可避的な副作用で比較的に少数である場合には、死ぬことを死っていても常に受容し難いものではないのです。たとえば高速道路を作る際には政府はそこで人が死ぬことを知っています。死ぬことが予想できる如何なる活動(any action)も許容しないという立場は説得力がないのです。

See Sunstein, Moral Heuristics, infra, at 1578-79.

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費用対便益分析の必要性

シカゴ大学Sunstein教授は、更に以下のような指摘もしています。

費用対便益分析の一つの機能は、有限な資源を何処に振り向けるべきかを指し示すことにあります。

See Sunstein, .Cognition and Cost-Benefit Analysis, at 1076.

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主要文献・主要出典

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【未校閲版】without proof

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